インプラントな歯科医院サイト

テレビにスポンサーがつかなくなったらしい。はてぶに「グッときた場面ベスト55」のCMが酷すぎる件がピックアップされていた。

優秀なコンテンツを持っているところが強いということです。しっかりしたものは、財産として残るんですよ。映画だって、見る人は減っていないんですから。

via: J-CASTニュース : バラエティが腐らせたテレビ スポンサーはそっぽを向く

「テレビからネタを下ろす時代ではなくなり、巨大メディアがネットのことを取り上げるようになった」らしい。となると、スポンサーはウェブにコンテンツを流すという。なるほど。で、コンテンツは?って、「それはオマエが考えろ」なわけね。「コンテンツ」を吟味せずにコンテンツを語る。はじめからあんパンのなかに”あん”がみたいだ。深刻はテレビのコンテンツのみならず。

一例をあげると歯科医院のサイト。一昔前ならデザインはもっさり。なのに面白かった。自分で作る先生がいたり。そこへ黒船がやってきた。企業サイトの製作が一段落つきはじめ、新たな市場開拓として歯科医院がターゲットに。

テンプレートなデザインと抜群の製作効率を持つ企業が「市場」へ進出。歯科医院専門のポータルサイトを立ち上げた。営業は「そこに掲載しませんか?」。ポータルサイトにタウンページを掲載、製作した歯科医院のアドレスをリンク。ポチッとクリック。洗練されたデザイン見やすくなって現れる。カッコイイ。おお。

見場がいいサイト=しっかりした歯科医院

専門家が閲覧すると、はてなマークがポッ、ポポポポポ、ポッっと空中に舞うサイトだったとしても、スッキリデザインとフレンドリーを醸し出していればOK。訪問者(=一般人)は「しっかりした歯科医院かな」と受け止める。それを悪いと言わない。私はそんな無法者じゃない。ビジネスライクにやればいい。ただ、なぜだろうと興味を抱く。

妄想するに、「見場がいい=しっかりした歯科医院」の図式をもたらす原因は情報の非対称性が占める。医院は情報の非対称性を埋めようと「情報」を掲載する。訪問者は「知らないこと」を知ろうと読む。その結果、何が起きたか。

インプラントのカンブリア紀。検索、おお、あまたの歯科医院がインプラントを治療に掲載。インプラントは「標準」だ。インプラントのみならず。歯周病。審美。子ども向けならキッズ。歯科医院のサイトはデザイン(正確にはデザインと表現しないけど)、あっ、いや、見栄えのよさを獲得した。のに物語を失った。パンフレットから脱却して作り始めたサイトがパンフレットに腰を落ち着けた。たくさんの文章量と画像。リアルと違い誌面はギガバイト。なのに掲載されている文章は「情報」じゃない。教科書。失礼を承知で申し上げると、何でもかんでもテキストを情報とよばない。知識でもない。データ。データは何も語らない。データそれ自体に意味を持たせて読み手に伝えなければ情報へと姿を変えない。「インプラント」を羅列すれば検索ページにヒット。それは検索エンジンがデータを踏んだから。

他方、訪問者は「知らないこと」を知ろうと読む。こちらも蛮勇をふるう。「知った」状態になれば「わかる」かといえば否。手前味噌を上げると、歯科医院のサイトを製作するために院長先生から歯周病に関連した書籍を数冊お借りした。読んだ。医療者向けに執筆された内容。どうして読んだか?

「知った」=「わかる」じゃない

「知った」けどわからない。当然。でもよかった。「情報の非対称」を埋めるために読まない。私は非対称を埋めるコストより非対称を伝えてくれる人を探すほうに掛け金を置く。そちらのほうがパフォーマンスを得られるから。大切なことは理解。「わからない」人が理解するために何を伝えなければならないか。ときにアナロジーを。結論が前にきたり。臨床の教科書に掲載されている順番に歯周病を書いても伝わらない。順番を切り混ぜることも必要だ。

「知った」=「わかる」じゃないということを理解する。そこからサイトのコンテンツ制作は始まる。

「理解できない」という意味

相手が何を理解できていないのかを理解すること、それがサイト製作に求められている。もっとも重要だと私は思う。その理解に至ったサイトは強力な武器を携えている。読み手が理解していることと理解していないことのギャップを把握するために行動する。行動はサイト製作に混沌をもたらす。混沌はいつまでも続く。なのに混沌のなかから生み出されたサイトは驚くほどシンプル。明快。裏、リアルは混沌の連続。

訪問者が理解して欲しいことを掬うために「削る」。平田オリザ先生は「リアルな台詞とは?」と問いかける。美術館を舞台にした演劇で、冒頭、「ああ、美術館はいいなぁ」と主人公がいきなり独りつぶやく。それがいちばんダメだという。「そんなバカな」と一笑した刹那、我が身を振り返れば震撼。歯科医院のサイト、おしてしるべし。

「削る」。街角に目を向けた時、無数無限のデータがある。気が遠くなる。カメラのファインダーをあわせる。データを切り取る。勇気。切り取ってデータが持つ意味を伝える。カラーやモノトーンで。露出アンダーやオーバーもあったり。

言うは易く行うは難し。いざシャッターを切った画像にため息。どうして?がうずまく。やっぱり自分と対話していない。私は何を伝えたくて、自分は何を映したいのか。私のなかで私と対話できていない。シャッターを消費してしまっている。

相手に理解して欲しいことと相手が理解したいこと

すぐれたサイトはシンプル。それは、「相手に理解して欲しいこと」と「相手が理解したいこと」に折り合いをつける。データがヒトの許容量を超えた現代、ヒトはますます知りたがる。ストックできないデータを消費する。ニュースを消費。意味を生成する時間は許されない。

だけど私はやっぱり立ち止まりたい。意味を伝えたいし。意味を掴みたい。意味を表現するために対話のなかから言葉を紡ぎたい。「相手に理解して欲しいこと」と「相手が理解したいこと」に折り合いをつける。それには、「知らない」を認めること。無知。そして「わからないとはどんな状態か」に我が身を置く。サイトを製作する側であればあるほど無知を認めなければならない。インプラントをどれだけ知っていても、「物語」にできないなら伝わらない。もちろん、伝わらなくても来院する人はいる。それを否定しない。無法者じゃないないし(笑)

私は物語を提供したい。問い続けたい。院長先生といっしょに「問い」を探し続け、訪問者に伝えたい。

でも、私のニーズは院長先生方からすると、足をねんざしたのに皮膚科に来たようなものなんだろうなぁ、きっと。あはは、だから私はサイト制作者として失格なのね。なるほど。