スタッフさんの声が忘れられない

先日、F先生とスタッフのみなさんでミーティングのあと、食事をごちそうになった。そのとき、スタッフの方から声をかけられた。

「シンクセルさんと会いたいです」

正確にはシンクセルは私の名字で、もう少し前後の脈絡もあるわけだけど。で、私はというと、もちろん嬉しくもあり、照れた。仕事とはいえ、女性から「会いたいです」と声をかけられて、嫌がる男性は性差を超越した存在だろうし 😎

だけど、どうして嬉しいと自問したら位相は異なるのかな。あれからずっと考えている。どうして嬉しいか。ちょっと感触を得てきた。ヒントは別のスタッフさんが私にかけた言葉。

「シンクセルさんは私が考えない点があるから」

ごめんなさい。正確に記述できない。まぁ、「着眼点が違う」とも受け止められる。

「私が考えない点」と「会いたいです」がつながる。それは、「わからない」を起点にしているから。たぶん、というかおそらく、いや決定的に感じた。「わからない」を確認できるから。

私は「自分がわからない」ことと「他者がわからない」ことの差異に執着している。「わからない」のプロになりたいぐらい。「なぜ、わからないのか」ではなく、「わからないとはどういう状態」であり、「”わからない”を対話するには何を必要とするのか」に興味を抱く。

そうすると、私のごく狭い人付き合いのなかで、F先生のスタッフは私と高感度で響く。調和。互いが「わからない」と素直になる。

ノーガキをたれるなら、「知ってる度合」ならスタッフの方々より知ってるかもしれない。ともすれば、スタッフの方々は教えみたいなものを感じているかもしれない。でも、それは誤解であって、「それ(=知っていること)がどうした?」と己にツッコミながら話をするし、そうツッコまれたらぐうの音もでない。教えるは傲慢。私は言葉を吐きながらひとつひとつ「確認」している。その途端、目の前にいる女性達の感性と私の感性のすりあわせがはじまる。どうして私の思考が伝わらないのかともがき、どうして彼女たちの思考が私の言葉に変換できないの。アナロジーは何を使う? メタファーは?

そういった「私が言いたいことはコレじゃない」とはっきり認識できる存在が彼女たち。F先生と彼女たちの対話が至上の快楽。

じゃぁ、そうじゃないときは。真逆。

「わかる」ことを前提にした会話。「知らない」ことを恐れる会話。そういうとき、私は饒舌になる。そして自己嫌悪に陥る。饒舌をひた隠し、自己嫌悪に陥らないよう己を統制できたらなと願う。だけどまだまだ発展途上。というわけで、宴を峻別してしまいがち。

私の饒舌に相槌を打ってくれたり、感嘆の声をあげてくれる。はじめは心地よい。でも、それが続くと壁にボールを投げているような。それぐらい私はワガママなんだなぁと再確認。

相槌と反論のバランス、感嘆と批評の掬い加減。たぶんキャッチボールってそういうことじゃないかと思う。

黙って聞くのはすばらしい。しゃべりべたというのもある。人はそれぞれ会話のスタイルをもつ。だけど、「知っている」や「わかる」を前提にしたおしゃべりと、「知らない」や「わからない」を素直にぶつけあえる対話、両者には逕庭がある。

前者に他者はいない。後者に他者が存在する。他者と他者がぶつかり、「言葉」が誕生する。誕生した言葉は、意味を吟味して「ええー、オレはそんなじゃない」と覚醒する。誕生した言葉を抱きしめた私は再び他者へ。自分から離れて。

ますます強く感じる。「知っている」人と話すあやうさ。そして、それは私自身のことであり、よほど自分を割らないと、私は「誰からも相手にされない他者」になる。

「誰からも相手にされない他者」になることを踏みとどまらせてくれる存在、それがF先生とスタッフのみなさん。

ありがとうございます。