新快速の人と普通の人

ウェブサイトを制作していると、更新用のコラムを目にする。なかには執筆者の許可を得て私が編集するコラムもある。失礼な話だと謝りつつも、心を鬼にしてキーボードをバシバシたたく。原稿を加筆。そんな経験を数年重ねると、執筆者や書き手を4つに分類するようになってきた。

新快速と普通 論理と非論理

テンプレートしておくと、善悪良悪は埒外。図の前提は100%主観、客観的データ0%の分類。図をひもとくと、横軸はコラムを書く人の脳内、縦軸がコラムのテキスト。横軸の「普通」と「新快速」はJR京都線の比喩。横軸は読み手にもあてはまる。

横軸が普通・縦軸がロジカル

読みやすい。「てにをは」の馴染み具合によって難易度は高低する。列車(=現象)を各駅(=事象)にとめる。線路(=論理)は大阪から京都まで一本。内容は平明、読者は広範、手本となる文章、汎用性に富む基本に忠実。列車に乗る客(=読み手)は安心。各駅停車だから駅(=コラムに書かれた内容)をひとつひとつ確認できる。連続した風景(=読み手のフレーム)が続くので乗客は地点(=読解)を確認しやすい。

課題は冗長な文章に陥らないこと。乗車時間(=文章量)が長くなれば乗客は眠ってしまう。短ければ戸惑う。エッ、各駅停車じゃないの?

言葉の容量。「言いたいことは100%書けた」なんてコラムは希。それを前提にした過不足ない言葉の量。「100%伝えきれない」のに「100%の言葉」、矛盾を抱える苦悩。ほんとうに難しい。

横軸が普通・縦軸がイロジカル

イロジカルと書くのは適切でない。なんとなく「情緒」としたくなかっただけ。だから反対語を用いた。この領域は私の手に負えない。ここに「てにをは」が侵襲してきたら、もはや異次元の世界へと旅立つ。乗客は大阪から京都へ行きたいのに、いつのまにか摂津富田で阪急電車に乗った気分。内容は幻想、読者は無限(理解の有無は除く)、不能(正負の意味を含んだ不能)となる文章、独尊の思考。

冗長なんてくそくらえ。寿限無のようであろうが四文字熟語だろうがおかまいなし。列車は安眠を誘う場所。各駅停車でも眠ってしまえば新快速。

横軸が新快速・縦軸がイロジカル

カオス。新快速は新大阪・高槻・京都に停車する。ということは間の東淀川、吹田、千里丘、茨木、摂津富田、山崎、長岡京、向日町、西大路はすっとばす(確か新しい駅が完成したはずだけどスルー)。これが重要。「すっとばす」のはロジカルかイロジカルか。分岐点。イロジカルにすっとばされた場合、読めばピンとくる。乗客は居眠りしているけど、船をこぎすぎて身体がカクンとなったとき覚醒。ああ、山崎かみたいな。よくわからん。

とにかく、「あっ、ココ、たぶん書き手の脳内で完結してるんやろな」とつぶやく。言葉が足りないときもあれば、言葉はあるけど、”たくさん””さまざま””いろんな””そのような”とか抽象的唯我独尊表現がならぶときも。

総じて専門分野のコラムに散見。書き手は文章を線で結ばず、点で拡散する。

内容は混沌、読者は極めて限定された点、独断の文章、教義の思考。転じてカリスマになったりする。

横軸が新快速・縦軸がロジカル

説明不能。私の理解を超えた神。

内容は明晰、読者は限定。いや、無限かも。ただ、乗客が勝手に降りていくだけか。この新快速は琵琶湖ライナー。300円ほど余計に払って指定席へ。睡眠、喫煙、飲酒も自由。気づけば目的地に到着。専門分野のコラムを書く人はこの領域に棲む。あるいはフィロソフィー系か。「共通言語」を使って間の駅をすっとばす。琵琶湖ライナーじゃなくて東海道新幹線もありうる。

自分を削り、言葉を削った文章。極度にまで削り落とした文章は日本刀。斬ると同時に新しい命を創る。この文章が他の横軸と縦軸へ普遍したとき、「叡智」と化す。

と、ここまでは羊の皮をかぶったまじめな分類。次回、オオカミのように毒を吐いてみたい。