[Review]: 今日の芸術

今日の芸術―時代を創造するものは誰か (光文社文庫)

一昨年だったか昨年だったか、F先生にイタリア料理をごちそうになったとき、尋ねられた。「芸術と芸能の違いは何ですか?」と。ドキリとした。あれから芸術と芸能の違いが頭の片隅に定住し、意識と無意識を往来しているように思う。

漢字からアタリはつけていた。芸を支える「術」と「能」。だけど漢和辞典を調べると混乱する。術は「昔からそれにくっついて離れないやり方、つまり伝統的な方法のこと」で、能は「ねばり強い力を備えて働くこと」と解字されている。なんだか逆のように受け止められる。

芸術は創造です。これは、けっして既成の型を写したり、同じことをくり返してはならないものです。他人のものはもちろんですし、たとえ自分自身の仕事でも、二度と同じくり返してはならない。昨日すでにやったことと同じことをやるのでは、意味がないのです。[…]芸術の技術は、つねに革命的に、永遠の創造として発展するのです。これが芸術の本質です。『今日の芸術―時代を創造するものは誰か』 P.206

芸術と芸ごとをごっちゃにしちゃダメと力説。芸ごとを芸能に置換するのは短見かもしれない。だけど、そう読むと得心。では、芸ごとは?

芸ごとはどうでしょうか。これは芸術とは正反対です。つねに古い型を受けつぎ、それをみがきみがいて達するものなのです。芸術が過去をふり捨てて新しさに賭けてゆくのに、芸道はあくまで保持しようとつとめます。何々流の開祖、家元というのがあって、だれでもがそれと同じ型をまねて、その芸風が師匠に近くなればなるほど上達です。やがて「免許皆伝」、「奥義のゆるし」となり、定める形式のなかに完成をみるのです。『今日の芸術―時代を創造するものは誰か』 P.207

芸術は技術、芸能は技能

芸術は相対的、芸能は絶対的。芸能に邪道はあれど、芸術に正道も邪道もない。上手/下手もない。芸術は技術、芸能は技能。技術は古いものを否定して、新しく創造し、発見してゆくものだという。かたや技能は、同じことを繰りかえし繰りかえし、熟練によって到達することだ。高層ビルを建築するのは技術であり、木造家屋を建築するのが技能。

なるほど、だから「名人芸」と評しても「名人芸術」と口にしないのか。名人には「長年の熟練がもつ勘やコツ」の響きがある。芸術には長年の熟練もへったくれもない(と言い切る蛮勇をふるえないけど)。子どもがキャンバスに描いた絵は、写実的でなくてもいきいきしている。躍動感がある。だけどコツを覚えた途端、生命力を失う絵。

「でたらめでいいから描きなさい」とアドバイスされたらどうだろう。体がかえって硬直したり。意識が邪魔をする。「でたらめ」を否定の意味でとらえてしまうと、「創造」はない。「でたらめ」が触媒となって自分の力を解き放ったとき、「創造」がやってくる。知識は単語を生成する。膨大な単語を駆使して話す人は、「上手な絵」だと褒められる。他方、身体は言葉を創造する。絞り出すように言葉を紡ぐ人は「でたらめ」だと嘲笑されるかもしれない。それが人の「いいかげん」だと私は思う。

知識が基準、叡智は複雑

ゴッホは生存中、己の絵がまったく受け入れてもらえなかった。絶望の淵にたち自殺した。現在の評価といえば言わずもがな。 ゴッホ以外にもいたはず。それらの画家は連続した歴史の断絶に棲んでいた。年表になった歴史に不連続は存在しない。連続と連続の間にある断絶。断絶は書かれていない。歴史はあたかも連続してはじめからあったかのようにふるまう。だけど、連続よりも断絶、消えた「歴史」のほうが厖大。「書かれていないこと」はわからない。人の「基準」とはそんなもの。ゴッホは上手くない、だけど醜くて美しい。それも数百年後には「おぞましい」と愚弄されうる。

時間軸が短い知識が「基準」として受け入れられ、時間軸の長い叡智は「複雑」だから敬遠されたり。

F先生からもらった問いを私は答えられない。これからも探求しつづける。少し問いを変えてみよう。「違い」ではなく、「なぜ”芸”の下に術と能を腑分けしたのか?」という問いに。ややもすれば対立に受け止められかねないのに。

私たちは非晶質や無定型を受容しづらい。いや、拒絶する。目の前にカオスが存在するとき、何とかして分類しようとする。自然というアナログの連続体を記号に置き換える。デジタル化。究極の記号は0と1。デジタルから抽出した知が現在の風景を構築した。アナログとデジタルの雑種を「モンスター」と名づけて「見えなく」した。アナログでもあると同時にデジタルだといえば、非論理的と手厳しい。

「芸」という境界線の引く必然がない領域に、私たちは境界線を引いて「わかる」ようにしてきた。芸に境界線を引いて芸術と芸能にしたのかなと疑う。まだまだ境界線を引き続ける。アバンギャルドとモダニズム。芸能のなかにも家元と「新」家元みたいな。

人生はおそろしい

真の芸術は、時代が過ぎても古ぼけません。つきない新鮮な感動の泉だからです。ほんとうに創造された芸術というものは、その時代の新鮮な表情のほかに、また、それをのり越えた永遠の生命があるのです。[…]相対的(時代的)な価値と、時代をのり越えた絶対的な価値の二つが、おたがいに切りはなすことのできない、創造の不可欠な本質になっているのです。『今日の芸術―時代を創造するものは誰か』 P.96

真の芸術とは「芸」じゃないかな。相対的価値と絶対的価値は創造の本質に不可欠。切りはなせない。そこに境界線を引きたくても引けない。人は境界線を引いて知を発見し、引けない生を抱える。循環しているのかな。

岡本太郎先生が残してくれた言葉。

人生だって同じです。まともに生きることを考えたら、いつでもお先まっくら。いつでもなにかにぶつかり、絶望し、そしてそれをのりこえる。そういう意志のあるものだけに、人生が価値をもってくるのです。つまり、むずかしい言い方をすれば、人生も芸術も、つねに無と対決しているのです。だからこそおそろしい。『今日の芸術―時代を創造するものは誰か』 P.97

そうなんだ、人生はおそろしい。

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