[Review]: ひとりでは生きられないのも芸のうち

ひとりでは生きられないのも芸のうち

少し前、書店へ足を運ぶと、「ひとり」が目についた。『おひとりさまの老後』が平積みされ、となりに『老後がこわい』が置いてあったり。あと、『恐くないシングルの老後』とか。筆者は「何を書いているのか」よりも「誰が書いたのか」で論評されやすい人たち。先日、ブラウン管は「ひとりで暮らす老人」の特集を流していた。「高級」マンション、「なんでも」サービス、「ひとり」の仲間たち、三つがそろった居心地のよい空間らしい。その空間に住んでいるひとりの老女がインタビューに答えていた。

「家族と一緒に住んでいても、老人は別の部屋をあてがわれ、そこで食事をして一日すごす。そっちのほうがよほどさびいしい」みたいなことを言っていた。ブラウン管はおおむね好意的に受け止めていて、「あなたも将来こんな暮らし方をしてみては?」と言外にこめているように受け止めた。

「現行の社会秩序を円滑に機能させ、批判を受け止めてこれを改善することが自分の本務である」と考えている人たちをどのように一定数確保するか、私がこの本を通じて達成しようとしている政治的目標はそういうことです。

via: 内田 樹: 『ひとりでは生きられないのも芸のうち』 P.17

辛辣。内田樹先生が掲げる「一定数」は五人に一人。その一人が「まっとうな大人」であればあとは「子ども」でもなんとか動かせるように私たちの社会は設計されているという。五人に三人が子どもなら動かせないようなシステムは制度設計自体にエラーがあると。

パレートの法則みたいとほくそ笑みつつ、考える。「まっとうな大人」は「ひとりで生きられない芸」を身につけている。背理法の導出。

ひとりでは生きられないのも芸のうちとは、「ひとりでは生きられない」からこそコミュニケーション能力の開発に自分のリソースを注ぐ。それは他者との共生。

冒頭の「ひとり」本も「ひとり」老人も私にはわからない。老後はもとより先のことを私は考えない。だからタイトルでもうお腹がいっぱいになるし、ひとり老人の言葉は「赤信号みんなで渡ればこわくない」を「誰と」とわたるかに置き換えたように聞こえる。ひねくれているなぁと自戒。

関係とひとり

私にはパートナーがいるので「ひとり」ではない。でも、やっぱり私のなかは「ひとり」だと思う。ただ、一人で生活しているのと違う点は、同じ空間と時間に「誰か」がいるという事実。そこに「関係」が生じる。空間に誰もいなければ関係は生じない。その状態を寂しいと判断する否かは、他人ではない。その人自身。「関係」のなかに「ひとり」を置いたとき、そこにまた「関係」が生まれる。その関係のなかには「ひとり」の私もいれば、パートナーとすごす私もいるし、パートナー自身もいる。そうやって、「関係」のなかに身を置いたとき、あらためて、「ああ、ひとりなんだなぁ」と「関係」が教えてくれる。

ふと、思う。(無茶なたとえだけど)外の世界との関係を断ち切り、毎日同じ場所で一日食事をしてすごす。それを一ヶ月ほど経験したら、その状態を「ひとり」というのだろうかと。誰もいない、0か1の世界。ひょっとするとデジタルな世界なの?って妄想したり。でも、0と1でどうやって「関係」を生むのか想像できない。屁理屈だけど、「ひとり」は生まれたときからもつ「属性」みたいなものだろうと思う。「ひとり」以外が存在しているから「ひとり」という属性をもつ。「生まれてから死ぬまで」ひとり。だから「一人で生きろ」とじゃない。あっ、べつに生きてもいいわけで。

どうして「家族」との関係は拒絶できて、「ひとり」同士の関係は受け入れられるのか? これがわからないので冒頭の「ひとり」本と「ひとり」老人に興味を抱く。

回転すしで「ひとり」を味わう

勘違いしている人が多いが、「現代人は情感が乏しいので、情感を表す語彙が貧困になった」のではない。「情感を表す語彙が乏しくなったので、情感が乏しくなった」のである。

ことの順逆が違う。

via: 内田 樹: 『ひとりでは生きられないのも芸のうち』 P.144

「ひとり」を考える時間が少なくなり、空間が小さくなったのかな。「ひとり」本と「ひとり」老人、ひとりで回転すしを食べる情景が浮かぶ。誤解のないようにテンプレートしておくと、「良い悪い」じゃない。ひとりで自分の好きなすしネタをつまむ。老女はみんながいるから寂しくないという。すしネタがたくさん回っているから寂しくない。好きな時間に仲間と興じる。好きな時間にネタを口にはこぶ。物理的に「ひとり」だけど、精神的には「ひとり」ではない。

逆と受け止める。物理的に「ひとり」じゃないけど精神的に「ひとり」。すると、「ひとり」を考える時間がほしくなり、空間も確保する。「関係」のなかで。私は回転すしが好き(おかしな日本語だけど)。だけどやっぱりカウンター越しの「にぎり」へ足を運ぶ頻度のほうが多い。それはパートナーといっしょに食べるからじゃない。すしネタがどこからやってきて、どう調理されるかを眺めたり、耳にしたり、自分に何をごちそうしてくれるのか、そういった「関係」が心地よいから。

一億三千万人の「ひとり」

日本は世界に類を見ないほど均質的な社会になってしまった。

かつては性が違い、年齢が違い、職業が違い、社会的立場が違う人は、それぞれ固有のエートスを保持していた。

それぞれの社会集団が、それぞれ固有のエートスを保持している限り、そこに単一の度量衡をあてがって、「どちらが社会により適応しているか?」「どちらがより成功しているのか?」というようなことを問う人はいなかった。

しかし、今は一億三〇〇〇万人の日本国民を「年収」だけを指標にして一元的に考量することが可能であると考える人がマジョリティになった。

そうやって、人々は「身の程を知る」という規範を失った。

via: 内田 樹: 『ひとりでは生きられないのも芸のうち』 P.144

清貧の思想で「父親と年収」についてふれた。同じフレーズが目に飛び込み驚いた。またいつものギモンに。、今は一億三〇〇〇万人の日本国民を「年収」だけを指標にして一元的に考量することが可能であると考える人がマジョリティになったという内田樹先生のストックフレーズ。父親と先生は一つ違いの同世代。その子どもの私は、「あなたたちがもたらした基準」との被害妄想を根強く持つ。世代論争は辟易だけど、「一元的考量」の再生産の一翼を担ったと思う。だからケツを拭くのかと首をかしげるし、「どの地点」から「誰」に放擲したフレーズなのかつかみとれない。このストックフレーズから「自責」を読み取れない。いつも。まだまだだなぁ。

自分の採用している度量衡は他の社会集団には適用されないと先生は言う。でも、世相は真逆を疾走していない? 杞憂?

「ひとりはさみしくない」という意味不明なキャッチコピーが跋扈し、「こわいかこわくないか」で老後を分析する識者。それにあわせて商品化される「ひとり」。

なんとかなるさとひとりごちて今日のごはんに感謝する者には世知辛くなってきたり。一億三千万人が「ひとり」になればぐるっと一周して、「(かつてのような?)世界に類を見ないほど異質な社会」になるのだろうか?