[Review]: 閉鎖病棟

閉鎖病棟 (新潮文庫)

「正常」か「異常」の境界線はどこなのだろう。見た目? 話し方? 挙動? いずれもしっくりこない。「全部」だとしても釈然としない。ひょっとしたら、私が「異常」で 『閉鎖病棟』 の彼らがまともではと訝ったり。

カッコーの巣の上で

『カッコーの巣の上で [DVD]』 ミロス・フォアマンにこんなシーンがある。ジャック・ニコルソンが精神病院にいる彼らを船の上で紹介する。医学博士なんて紹介して「正常」な人にウソをつく。そのときの彼らの表情や威風堂々たるもの。もっとも印象に残ったシーンだった。しょせん映画と嘯ける。じゃぁ現実は? さして変わらないのでは。

報道で「異常」らしき事件があれば(誰が異常と判定したのかしらないけど)、精神鑑定へ。結果、まともなら「正常」な事件に。私からすれば「異常」と報じる事件はまともで、まともな扱いを受けている事件が「異常」に映ることもしばしば。事件にフォーカスすればの話。じゃぁ、犯した人は? 精神病院に通っていたり通院履歴を持つ人が罪を犯せば、「異常」に扱われ、報道はトーンダウン。警察もトーンダウン。検察もトーンダウン。果ては「なかったこと」になる。「ない」が「ある」わけだ。

患者はもう、どんな人間にもなれない。秀丸さんは調理師、昭八ちゃんは作男、敬吾さんは自衛隊員、[…..]という具合にかつてみんな何かであったのだ。[…..]
それが病院に入れられたとたん、患者という別次元の人間になってしまう。そこではもう以前の職業も人柄も好みも、一切合切が問われない。骸骨と同じだ。
チュウさんは、自分たちが骸骨でないことをみんなに知ってもらいたかった。患者でありながら患者以外のものになれることを訴えたかった。

『閉鎖病棟 (新潮文庫)』 帚木 蓬生 P.145

閉鎖病棟に入っている人を「私たちとは違う」人と峻別する。この私たちは、「私」と「閉鎖病棟に入っている人」ではなく「世間」と「閉鎖病棟」の構図。この構図があるから、わざわざ「精神病院に通っていた」と冠をつけて「人間」を報道する。

じゃぁ、世間の「中」の人たちは危険じゃないの?

そんなわけない。危険かつ獰猛なやからはいる。それは閉鎖病棟も同じ。チュウさんがカルテをチラっとみたとき、「精神分裂症」と書いてあった。チュウさんはいけないことと知りつつ、他の患者の記録をのぞき見たとき、その大半に「精神分裂症」と記されていた。ただのラベル。

そのチュウさんが新川暁子医師から尋ねられる。

「塚本さん。自分のどこが病気だと思う?」

『閉鎖病棟 (新潮文庫)』 帚木 蓬生 P.305

やがて同じ質問をまったく違う場所で違う人からもう一度聞くことに。一回目の答えと二回目の答えは同じ。だけど質は違う。一回目が純粋なら二回目は狡知と私は読んだ。でも、両方とも私はまともだと受け取った。チュウさんが退院するのを拒む妹夫婦。そちらのほうがよほど「異常」に映った。

『閉鎖病棟』を読んで感動した人がいる。解説を書いた人は「まさに琴線に触れる小説だ」と認めた。「琴線」の解釈をどうとらえるか。私は感動より恐怖、琴線より現実を選んだ。

目の前の日常が「現実」で、彼らの日常は非日常の「仮想」。「現実」と「仮想」を使い分けているから涙があふれる。これは小説のお話。空想の世界に感情移入できるのかも。

私の日常が「正常」であると誰が判断するのか。私の日常が正常で、彼らの日常は異常だと担保するのは何か。

琴線より現実と書いたのは、私の日常が彼らの日常になるかもしれないと感じたから。でも、その感じ方は「仮想」から抜け出せない。私が彼らの日常になったとき、このブログを書いていた日常と何が違うのか、その差異を答えられないだろう。それも仮想。

「現実」と「仮想」を峻別したくなくなればなくなるほど、「正常」がぱっくり口を開けて待っているような気がした。それが恐怖なのか快感なのか、今の私にはわからない。