[Review]: 脳男

脳男 (講談社文庫)

「もしも自分に”感情”がなかったら?」と想像してみる。いままで経験したフレームからアナロジーを取り出そうとしてもムリ。そも「感情」を理解していないし、たとえ理解できたとしても認識していない。無意識のなかにある。意識すれば演技だろうけど日常の生活に「必要な文脈」ではない。毎日「演技」続けているならば話は別だけど。

「ものごと因果と結果に分けて考えるのは、論理的な思考というより人間の脳の癖のようなもので、生まれつきそなわった情緒的な感覚に近い。現代の精神科医なら人間のことような心の動きを情動と呼ぶのではないかね。簡単言えばこうだ。凶暴な野獣が自分に向かって突進してきたのに、人間が回避行動をとるのは論理的な思考の結果でなく、このパターン認識が生まれてつきそなわっているせいであるとな。ところが、それが欠落している彼の場合、野獣が向かってくるのを見ても、その認識をその場から逃げるという行動に瞬間的に結びつけることができないということになるのだ」

『脳男』 P.172

「人間はなぜ学習するのか?」と問われたら、その数と等しい答えが返ってくるかな。だけど根本はというと、子どもが口にするセリフが的を射ている。

「それ必要なの?」

必要という文脈で人間は判断して行動にうつす。認識や行動は合理的であっても、「基準」はせまい範囲内で行われている。先の大阪府知事選なら、「アメリカ大統領に誰が選ばれるか」を投票する基準において判断する人はいないはず(いたらごめん)。判断する材料の選別が広がりすぎれば判断できない。「認識」と「行動」を結びつけるものは「必要」という文脈。それが欠落してるとき、人間はどうふるまえばいいの? 脳男がヒントを与える。脳をプログラミングしないと「必要」に対してYesかNoの判断ができない。必要か必要でないかの文脈をもたないから「認識」と「行動」が結びつかない。

新人教育を受けたとき、「コミュニケーションで必要なのはボディーランゲージ」と意気揚々に語る講師がいた。メラビアンの法則を知ったか。それを聞いたときに、フムフムと電車で爆睡しているように船をこいで頷いていた。で、心中で「くだらねー」と毒づく。そんな私ってメラビアンの法則からはずれるのですか、と質問したくなった。

視覚がもたらすものは「主体的な身体活動がともなわない」認識。テレビを視ていると、「情報の受容」から「言語情報への変換」を経て「分析」というプロセスを介在させない。視覚は物事を一瞬にして把握する。テレビはこわい。

だけど「見る」以外の経験は、言語野にとりこまれアナロジーとして表出されてはじめて「意味」をもつ。物と意味のリンク。アフォーダンスにはちとふれずに。

「聞く」という行為が「言葉」を伝えること。とても大切だと思う。なぜなら「感情」という視覚の判断を疑うために。メラビアンの法則のように「怒った顔」をして「笑ったような声」で「悲しい」とつぶやいたとき、何を「判断」するの?

脳男の「判断」は私の理解の埒外。だけど、「コミュニケーションの問題」とか「コミュニケーションをもっと深めよう」やらを主張する人や組織ほど鈴木一郎の負とダブって映るのはなんでやろ?