[Review]: 清貧の思想

清貧の思想 (文春文庫)

1月9日、草思社が民事再生法を申請した。負債総額は22億4789万円。複数の企業が支援に名乗りをあげている。印象的なラベルでベストセラーを世に出し、ジャンルによってはコアなファンもいた。売上高のピークは97年10月期の約39億円、06年10月期には約16億2000万円に落ち込んこんでいた。だけど自社ビルを「所有」していた。05年まで。ベストセラー「清貧の思想」を出版した会社であったけど。

清貧とはたんなる貧乏ではない。それはみずからの思想と意志によって積極的に作りだした簡素な生の形態です。本阿弥光悦やその母妙秀のように、もしかれらが欲するようならいくらでも贅沢な生を送れたであろうに、かれらはそれをきらい、必要最小限の生を選びました。それはなぜか。
そこにはまず所有のもたらすさまざまな悪い影響についての、非常に行きとどいた省察があったと思われるのです。富貴への願望、所有への欲望が旺んであればあるほど、人は財の増大が唯一の徳であるかのような錯覚に陥って、所有の上にも所有を欲し、そのためにはいかなる非人間的な所業をもあえて行うようになります。われわれは最近も、一九八〇年代のいわゆるバブル経済の繁栄の中でそういう欲望の奴隷になった連中を多く見たばかりです。

『清貧の思想』 中野 孝次 P.165

バブルを経験していないので「バブル経済の繁栄の中でそういう欲望の奴隷」を見たことがない。清貧の思想は1999年の秋に「時代の言葉」となった。

「白黒テレビ、冷蔵庫、洗濯機」は50年代の三種の神器。今は「デジタルカメラ、DVDレコーダー、携帯電話」に変わった。「所有」の欲望は引き継がれる。形をかえて。じゃぁ、バブルは?

幻の18兆円、9兆円は土地と住宅、5兆円は耐久消費財、4兆円はブランド品へ。それは今頃どうなったのかなぁと興味津々。バブル経済の幕開け、家計部門だけで370兆円の資産膨張を記録。当時の1年間のGNPに匹敵。ということは、バブルが幕を開けた途端、もう一つの「日本」が日本列島に出現したわけで。すごいな、ニッポン。

それでも持ち続ける。欲望って止まらないな。「恒産なきものは恒心なし」とは孟子。その結果が”ここ”までなんてって絶句するだろってツッコんだり。日本列島に「日本」を一夜城するニホンもニッポンだけど、一晩で”そこ”まで落ちた日本もJapan。まぁ、バブルは数年だった。それも「時間軸」をズラせば一夜ほどの夢やんか。「宵越しの銭は持たぬ」の江戸っ子だったよって笑いとばせば。

良くも悪くも極なんだ。文化なのだろうか?

右へふれれば右へ、左へふれれば左へ。それは、ライトな単語ならライフスタイルであり、ヘビーな物言いなら生き方。相互に扶助し、支援し合うぬくもりのある共同体に帰属したいと考える世代もあればスタンドアローンでありたいと反発する世代もある。相互扶助は「均質」をもたらし「異質」を「見えなく」したのに。としたら、スタンドアローンは異質を「見える」ようにした、けど、多様性を受け入れるまでには熟してない。

年収が基準、年収がもたらすもの

スタイルがさもしい。「スタイルは死を招く」とコンフィデンスでダスティン・ホフマンは言った。けど死を招くほどのスタイルをまとっていない。「誰か」は行間でよろしく。

団塊の世代の父と年末よく話をした。私を心配しつつも呆れている。ことあるごとに今の自営業をやめろと暗に諭す。基準は年収。それでやっていけるわけがない。もしパートナーに何かあったらどうすると脅して時にはすかして。さすが敏腕の営業マンだなぁと妙なところで感心する息子。

基準は年収。年収は「所有」をもたらす。年収は「安定」をもたらす。年収は「リスク」を回避できる。年収は「健康」を維持できる。

この気の遠くなるような、日本と伯剌西爾で糸電話しているような気分の私はそそもそも前提をどうすりあわせようかと悩む。

持たないとはどういうことか?

父の前提と私の前提、互いが受け入れてないからとまどいを引き起こす。「世代間」の超克にもがいても隠然と存在する「世代」。「持たない」の五里霧中に私。「持っている」まっただ中の父。「持たない」ための消費じゃない。「持つ」ための消費なんてもってのほか。「清貧」できるほど金なんてありゃせん。とにかく「明日は何とかなるだろうけど、来年はわからないなぁ」だし。だったら「持つ」なんて考えるのは贅沢だろう、と。

「何を持たないのか?」と自問したら愕然とした。わからない。スタイルを「持っていない」。どうでもいいモノは「持っている」けど、「持たない」ことを司るスタイルを持ってない。それが唯一持っていないモノだとしたら…。アイロニー。

「何を持たないのか?」と頭の片隅に置いたら自分の部屋が色褪せてきた。なのに、日常の風景は色鮮やかに映ってきた。食の味覚は敏感に。あとは時間と空間と貨幣を人生にインストールしてレールから「ズラ」してみたくなってきた。「ズレ」たら落ちこぼれらしいけどね。

「ズレ」るには何があっても動じないココロを持たなくちゃ。静謐に身を置き、喧噪から遠ざかる。

そうそう、『清貧の思想』徒然草がお好み。なので、私も好きな段をひとつ。

無益のことをなして時を移すを、おろかなる人とも、僻事する人ともいふべし。国のため君のために、止むことを得ずしてなすべきこと多し。そのあまりの暇幾ばくならず。思うふべし。人の身に止むことをえずしていとなむ所、第一に食ふ物、第二に着る物、第三に居る所なり。人間の大事、この三つには過ぎず。餓えず、寒からず、風雨にをかされずして、閑かに過ぐすを楽とす。ただし人皆病あり。病にをかされぬれば、その愁忍びがたし。医療を忘るべからず。薬を加へて、四つの事、求め得ざるを貧しとす。この四つかけざるを富めりとす。この四つの外を求めいとなむを驕りとす。四つの事倹約ならば、誰の人か足らずとせむ。 「第一二三段」

無益のことをなし、無益のことをいひ、無益のことを思惟して時を移すのみならず、日を消し、月を亙りて一生を送る、最もおろかなりとも。なのに、「無益って?」と尋ねられたら頭を抱えるワタシ。

一日を持てば消費する。一月を持てば浪費する。だったら一生は?