それが「問題」

イノベーションの神話

先日、『イノベーションの神話』エントリーを書いた。そこでふれなかったこと。「問題」について。

アインシュタインも「問題を20日で解決しなければならないとしたら、私は19日かけてその問題を定義する」と述べています。『イノベーションの神話』 P.147

「それが問題ですね」とうっかり口にしたときシマッタと内心舌打ち。コンサルタントじゃあるまいし。どうして私が問題を定義できましょう。自己言及の矛盾を承知して指摘するなら、組織の問題は「「問題」を定義しないことが問題」と認識しない点にあると思う。

その一つに「他者の承認を経ていない」問題。「そう、それが問題だよ」と他者から承認してもらうには自分の頭の中を言葉に変換したり、図形に描いたりしてアウトプットしなくちゃいけない。なのにアウトプットする前に解決策を求める。あるいは解決策を持っているけどお前はどうなんだとすごむ。すでに「問題を定義した」と勘違いして。

なぜ勘違いするんだろう?

それが問題(あっ、しまった、また口走った)。

ときおり、「問題意識」ということばを耳にする。代表格は「アイツは問題意識を持っていない」ってフレーズ。

でも、ちょっと待って。その「問題意識」は目の前に提示できるもの?

ひょっとすると、「アイツは問題意識を持っていない」と放言した人だけの問題なのかもしれない、と放言した人は疑わない。

それが問題(あっ、しまった、またまた口走った)

「問題」を遡上にのせるのは思いのほか手間がかかる。組織なら立場や利害関係によって問題は異なる。それのどこが問題なんだよ、と激しくツッコまれるよりも、まぁまぁ穏便にとなごむから変な方向へ。どう、変な方向へ?

問題を定義せずに解決策を考える、方へ。

そして、その解決策に利害関係がインストールされて、「オレ、やらね」や「なんでそんなことしか思いつかない」とか、「時間のムダ」やらのバグが発生して、「やらない理由」が作動。「やるやる」ウィルスが侵入してくるのを「やらない」ソフトが駆除。削除。「やらない」ことが何よりの解決策。

再度、確認。

「問題」を脳の中から取りだし、「そう、それが問題だよ」と私以外の他者に承認してもらうにはアウトプットが必要。承認してもらってようやく「吟味」を手にする。いまだ吟味。却下の可能性もあるわけで。そうやって濾過装置をスルーした「問題」が共有される。だけど「共有」も問題があったり。アウトプットは時間と空間がともなう。アウトプットの地上には膨大な言葉が存在して、地下には想像を絶する思考が伏流してる。

脳と身体、両方をハンドリング。

ところが、承認してもらっていない問題というのは、脳の中にとどまって身体で体現していない。だから「じゃぁ、やってみろよ」と注意を受ける。

その反対は?

「やってみろよ」と注意されてやってみたところに問題があったりは? いや、反対と書いたのは正しくないか。というのも、相当頭が悪いので「論理的」にというのが苦手。苦手というよりほんとイヤになるぐらいわからない。

問題の主な原因は解決策にある ー エリック・セヴァレイド 『イノベーションの神話』 P.157

アインシュタインもエリック・セヴァレイドもパラドックスを探求していたのかなぁと愚考をはせる。

そうなんだ、「問題」を解決するのに「問題」を定義したのに、解決策が「問題」という摂理。

「問題」は問題を語る言葉を知っている範囲の内側でしか定義できないのに、ほんとうの「問題」は問題を語る言葉を知っている範囲の外にあるとしたら? でもそれをどうやって「問題」と名づけるの?

第三の目があるわけかな。でもその第三の目を監視する別の目は? そうやって「タマネギの薄皮を一枚一枚はぐ」わけで。どこにゾンビを設定すればいいのやら。

案外、単純に思う。時間と空間を埋めるために仕事をしている。なかには「作業」もあるんじゃないかな。予定表に「何か」が全部埋まっているのに安心して、予定表に「何か」の空白があると不安に陥る。「何か」を審判するヒマなんてない。ほんとうは時間と空間を解き放つために「仕事」をする。

じゃぁ、解き放たれた時間と空間は何に費やすのか?

それが「問題」だろうと。