先生、去らないで

日本人の死に時―そんなに長生きしたいですか (幻冬舎新書)

「医者は、三人殺して初めて、一人前になる。」と帯で社会に衝撃を放った『破裂』の著者、久坂部羊氏がSankei EXPRESSに『断』というコラムを執筆。以下、(法的な問題を委細承知の上で一読していただきたい一心から)全文。『断 – 医師が去るしかないのか』

先日、知人の外科部長が病院をやめた。理由はいろいろあったようだが、医療裁判に巻き込まれたことが大きな原因だ。

彼は肝臓手術の専門家で、肝臓に転移したがんの新しい治療法に取り組んでいた。医療保険ではまだ認められないが、徐々に広まりつつある治療法である。

大腸がんが肝臓に転移して、ほかに治療法がなくなった患者に、彼はこの治療を勧めた。転移の数が多いので、死亡率は20%くらいと説明したが、このまま死を待つよりはと、患者も妻も治療を望んだ。ところが不幸にして経過が悪く、患者は亡くなった。

そこに娘が出てきて、そんな危険な治療とは聞いてなかった、父親を新治療の実験台にしたと言い出し、訴訟になったという。危険な治療であることは本人と妻には十分説明していたが、妻によれば、娘には「かわいそうなので、知らせなかった」らしい。そこで娘を説得してくれればよかったのだが、悲しみに暮れる母親にその力はなかった。

家族にすれば、ほかにも許せないことがあったのかもしれない。しかし、知人としては、患者を救いたい一心でやったことである。症状が悪化したあとも、知人は不眠不休の治療をつづけた。なのに娘はわかってくれない。

裁判は結局、医師側の勝訴に終わったが、知人は多大の心労を追わされた。患者によかれと思ってしたことなのに、こんなにも恨まれ、釈明を求められる。そのことに彼は「もう、いやになった」と漏らした。

大切な身内を失った家族の深い悲しみは、何よりも尊重されるべきである。それは当然のこととしても、何とか患者と医療者の敵対する状況は避けられないのものか。

大切な身内を失った家族、深い悲しみに打ちひしがれている家族にとって、私たちにおこった悲劇は一回性。でも、医師にとっては日常のなかのひとつ。ややもすれば、「ひとつにすぎない」と残された人は受け取ってしまう。

反転してみる。このコラムの出来事は「ひとつ」だけしか記されていない。医師と登場した家族、一対一。でも、医師は「もう、いやになった」と吐露。だとしたら書かれていない日常は? 不眠不休の治療を続けたのに「全部の患者」はわかってくれないとしたら? そんなことはありえない。でも、書いていない日常が前景化してしまっているのだとしたらその心中やと推し量る。

「不確実」である医療を「確実」であるかのように誤認。いつのまにか前提が共有できなくなった。

「状況は避けられないものか」で締められているように一度歯車が狂いだしたら元に戻れない。戻るじゃない。「過去の映像」に浸るだけ。昔を美化して問題を見えないところへ置いてしまう。

折しもこんな話題が。

若い外科医が海外に逃げていく–もう1つの医療崩壊

それまで医師の人事権は「大学医局」が完全に掌握していたが、臨床研修必修化を契機に、研修医が自由に研修病院を選ぶようになった。その結果、医師が自発的に行きたがらないへき地などで医師不足が生じ、それを調整しようとすると他地域の医師の労働が過重になるという悪循環に陥った。

加えて、患者の医療に対する要求が強まり、医療訴訟が急増。さらには、手術などの結果が悪いと、検察が介入し刑事訴訟に発展するケースも目立つようになり、勤務医はそうしたストレスにもさらされ、疲労しきっている。いわゆる「医療崩壊」だ。

そして、この「医療崩壊」の陰で徐々に進行しつつあるのが、優秀な外科医の国外流出だといえる。まだ水面下の小さな動きではあるが、今年辺りから新たな問題として表面化してくる可能性がある。

政治と医師会が折り合うシステム、それを私はコントロールできない。だったら自分がコントロールできるよりどころはどこに。

おそらく自分がよりどころにするのは生と死に常に向きあう姿勢。(自殺をのぞけば)生と死を自在に操れない。なぜ生まれてきてなぜ死ぬのか一切わからない。だとすれば、人の生は長短じゃないと今の私は頭の片隅に置き、身体に問いかける。

生と死を頭の片隅に置き、身体に問い続ける。それしか私にはできないなぁと『断』を読んで自省。