[Review]: がんとどう向き合うか

がんとどう向き合うか (岩波新書)

先日、山本孝史参議院議員がご逝去された。胸腺がんに罹患した氏は、「がん対策基本法」の成立に尽力していらっしゃった。法律は今年4月に施行。参議院本会議では、「がん患者は身体的苦痛、経済的負担に苦しみながらも…..一日一日を大切に生きている」と訴えた。この訴えが与野党を超えて「がん戦略」に立ち向かわせた。

これまで日本人はその昔の精神的な秩序ー生老病死の死生観ーに支えられてきたといわれるが、生あるものは必ず滅ぶという、その思想の上で人間は死ぬことによって意味のある存在である。しかし、めまぐるしい現代日本社会のテンポは非日常的な死の前に立ち止まることをしばしも許さず、私たちは日常的に死をみつめて生の意味を深める姿勢を放棄して久しいように思われる。現在、患者も医師も医療技術の進歩のみが病気を克服するかのような錯覚に蝕まれて、あたかも日常の中から死を完全に取り除き、無限の生を享楽するような考え方が日本社会を覆っているように思われてならない。

『がんとどう向き合うか (岩波新書)』 額田 勲 P.219

現在、平均して日本人の二人に一人はがんに罹患、約三人に一人はがんで死ぬ時代。2005年の死亡者数は1,083,796人、うち悪性新生物(がん)は325,941人。死因数第1位のがんによる死者は激増している。2位の心疾患は173,125人だからその突出ぶりはあきらか。これは高齢者社会と関係していると筆者の額田勲先生は指摘する。その額田先生自身もがんの罹患者。

「がんとはいったい何か」という根源的な問い。この問いには医学的な解と哲学的な解があると私は思う。前者でいえば、「がんは、細胞、もしくは遺伝子の病気」とされる。ならば、生命活動を営む臓器全体が「がん」の視野に入る。つまり肺がん・胃がん・大腸がん・肝臓がん・膵臓がん(男性の五大がん)や乳がんなど代表的ながん以外も考慮しなければならない。その数、おおよそ200種類といわれる。主要ながんが治癒困難であるにもかかわらず(五年生存率)。

他方、早期発見・早期切除の二次予防のみならず、一次予防がさけばれる。情報番組で「がんに効く」と紹介された食べ物が一時的に品薄になるのを耳目すると、なにかどうも間違った方向へメディアは誘導していないだろうかと首をかしげる。

そうした風潮が瀰漫した結果、「がんが治せないのは医師の責任、いや、がんが発生するのも医師のせいにされかねない」ような報道も。結果、医師と患者の間に不信が増殖し、「この間の健診では何もなかったのに、なぜなんですか?」と患者や家族から詰問され、「一個の細胞が癌化してから細胞分裂する仕組みとその年数、そのガンが画像で識別されるようになるまで」を医師は説明する。

本書を一読すると、先生は自分ががんに罹患してはじめてわかったことや医師と患者の両方を経験した立場から「がんとどう向きあうか」を吐露。医学的説明もやさしい、私のような素人でも読める。がんは「多様性かつ不確実性で普遍性な病気」なのだと痛感。

日本のがん医療において現在、罹患した者の半数以上は救命されることがない。しかし、私たちはその紛れもない事実を正視しようとしない傾向を次第に強めているとも思われる。たとえばがんの早期発見・早期治療が格別に強調されるのは当然としても、その一面でCT、MRI、PETといった高度診断機器の相次ぐ登場のこともあって、「がんは必ず早期発見が可能である」といったとんでもない誤解や、同時に「がんは早期発見すれば必ず助かる」といった類の思い込みなど、行き過ぎた早期発見神話が横行しているような事実に日常しばしば遭遇することである。P.200

誤解を恐れず。「治る/治らない」の二分法に医師も患者も支配されてほしくない。二分法は医療技術の進化を支えている。否定しない。先人の方々が自らの命を賭してまで取り組んだ医療への情熱を冒涜してはならない。他方、二分法は医療の限界(私は適切な言葉を知らないのでご容赦を)を「見える範囲」から「忘却」へと押しやろうとする。

先生が本書のなかで紹介したがんに罹患した人たち。

  • 20年以上も診てもらっているのだから、もっと早期に肺がんが見つけられたはずなのに….と口にする人
  • 神戸長田で四十年看護師をつとめたイネさん
  • 雨後の松茸のように多重がんから劇的に生還した人
  • がん難民になった人(医療制度、経済的理由など)
  • あるがまま、なすがままに受け入れた人

それぞれの方々が「事情」を抱えている。それぞれの方々が「物語」を持っている。その「事情」と「物語」を前にして医療が対応する手術から自然経過まですべての対応が「医学的なコントロール」という範疇にすぎない。

「がんとはいったい何か」という問い、私は医学的な解と哲学的な解があると先述。先生は医学的な解、換言、現代医療の強力な治療手段と神話的なスローガンを提示した。だが、哲学的な解、形而上と形而下の往来には踏み込まなかった。医師が個人の生老病死の死生観にどこまでコミットメントするのか、あるいはしてはいけないのか、または違った形で寄り添えるのか、そのあたりで苦悩されている様子がありありと浮かび上がる。今求められる新たな医療の枠組み。ケア、がんとどう向き合うか。「治す・治らない」からの脱却。

患者は「選択と決断」を迫られる、もしくは委ねられる。医学的な解への選択と決断も含まれよう。同時にもうひとつ、哲学的な解への選択と決断。”ゆだねられる”というよりもどう構えるか。そのとき、「患者」ではないのかもしれない。

生と死。自分ではどうすることもできない、「ああすればこうなる」から究極に対峙する根源。