[Review]: 演出家の仕事

演出家の仕事 (岩波新書)

私は演劇を知らない(わざわざ自分の程度の低さを吐露するもどうかと思うけど)。数回観た程度。演出家がはたす役割を想像できない。なのに「演出」という言葉を時折使う。不思議だった。どうして演出の役割を知らずに「演出」を使うのか? 意味を理解せずに見た漢字の印象で使う、そんな言葉は他にも存外あったり。いけないな。

どんな場面で「演出」を使うのか? たとえばミーティング。ミーティングがうまくいかないと誰かが嘆く。だから「うまくいっているミーティング」を見学したり、「やる気がでるミーティング」や「ミーティングのマネジメント」みたいなタイトルに目がいく。そんなときわたしは「演出」と口にする。ミーティングは演出。

舞台での会話とは、自分のせりふをどう言うかではなく、まず相手役がどういう状況でそのせりふを話すか、その音、その意味を聞き取ったとき、そこから感情が起こり、身体が動き、それが次の自分の言葉を導き出すということなのです。つまり、言葉によっていかに他者を動かせるか、という一つひとつの積み重ねが、俳優にとってのせりふの働きなのです。言葉が動くとき、温度は上がります。その温度が積み上げられることによって、人間の対話は生きたものになるのです。

『演出家の仕事 (岩波新書)』 栗山 民也 ;P.62

「演出に必要なものは何か」という問いに「何を見て、何を聞くのか」だと演出家の栗山民也氏は答える。「見る」と「聞く」、人間が持っているあたりまえの能力を徹底的にきわめる。それが演出に必要だと力強く説く。

今の俳優はせりふ”だけ”を覚える。とにかく覚えることだけが大事。だから「自分のせりふの数の多少」を問題にあげる。せりふは何のためにあるのか?

せりふの意思は、相手のせりふを聞くことからしか生まれないのです。そのせりふは、目の前にいる相手役を、また動かすための言葉で、そのつながりによって物語は動きながら前へと進んでいくのです。

『演出家の仕事 (岩波新書)』 栗山 民也 P.11

ミーティングで声高々と発言する人はいる。他方、黙って聞く人もいる。状況によりけりとはいえ、どちらも表裏一体。「自分の発言の数の多少」と「自分の無言の数の多少」。

「ミーティングは演出」と書いた。誰のためのミーティング? 発言の目的は”しゃべる”じゃない。自分の発言は相手の発言を聞くことからしか生まれない。だから自分の発言は他者を動かす。他者を貫いた発言は自分に戻ってきて自分を動かす。そうして動き出した物語は「顧客」を動かす。

「聞くように話して」と私は願う。眼前のミーティングは一回性。どの組織にもあてはまるミーティングはない。なのに「うまくいっているミーティング」があると欲望。そんなものはない。蜃気楼を追いかけている。

「ある時、ある場所、ある人数」で発生するミーティングの空気と言葉は「そこ」でしか醸成しない。毎回の発言、それを「初めて聞く言葉」として、聞く。眼前の情景を「初めて見るもの」として、見る。初めて「聞く」と「見る」が起こす変化を忠実にうけとめる。変化から響き合うものをつかみ取る。

「ものを聞くことは、音と音の隙間から、何を聞き取るのかということ」

本来、音と音のあいだにあるのは沈黙。だとしたら「沈黙こそ、音」。そこから何を聞き取るのかが問われる。絶望の淵に立たされる悲痛。にもかかわらず対話への欲望に駆り立てられる。

対話、相手の発話と私の発話。その間に存在する沈黙。そこには複雑で不可視の感情と動機。「わかるはずがない」他者を「わかりたい」と希求。だから見ると聞く。

「あ、わかった」「やっとこれで、できた」と満足に語る方へ。

今世紀最高のピアニストの一人である、ロシアのスヴァトスラフ・リヒテルの半生を追った『リヒテル・謎(エニグマ)ー甦るロシアの巨人』と題されたドキュメンタリー映像(ブリュノ・モンサンジョン監督、1998年)があります。その冒頭で、その制作者であるブリュノ・モンサンジョンは語っています。
「リヒテルは独自の世界を持ち、孤高のうちに光り輝いている。…..分析を嫌い、自己を語らず、世事や賞賛や富みに無関心。…..その心を占めているのは、障害を捧げた音楽のみ」と。[…]その映像の最後に、リヒテルのポツポツと呟くようなごく短いインタビューが収められています。
「すべてがわずらわしい。音楽じゃなくて人生が…..自分が気に入らない。終わり」
この完璧とも思える一芸術家の、「自分が気に入らない」という言葉に、芸術をどこまでも求めることの永遠性を思い、深く共鳴するのです。そして、何もかもまだ遠く届いていない今の自分を見つめ直し、演出の仕事にも到達点などないことを確認するのです。

『演出家の仕事 (岩波新書)』 栗山 民也 P.201

見ようとしない人には何も見えないだろうし、聞こうとしない人には何も聞こえてこないだろうと思う。「何を見て、何を聞くのか」は無限。よりどころは想像力。そして悩み揺れ動く。いまだ獲得できない言葉に苦悩する姿。そこに人は共鳴する。