[Review]: 読書の階段

読書の階段

購読していた朝日新聞を年内でやめますと伝えた。朝日新聞は書籍の広告がとても充実している。日曜日の書評欄は私には読み応え十分。要は「読書」に比重をおいて新聞を購読していた。新聞の書評は字数が制限されている。「制限」された紙面に「無制限」の言葉を掲載する。どれもたいへんだろうなぁ。

書評の色彩はメディアの種類によって異なる。深い味わいのある文章や専門家の解説がずらり。今ならブログで書評を書く人がたくさんいる。書き方は十人十色。だとしたら書評の目的とは何だろう?

書評から本を読む。自分の読書を省みると少なくない。雑誌や新聞、ブログで書評を読んで本屋さんで本を買う。読書はほんとうに不思議だ。私の場合、食べ物の嗜好が変わるかのように読む本も変わってきた。10代は小説、社会人になった20代はビジネス本やハウツー本。そして30代の今はといえば、ビジネス本はほとんど読まなくなった(まぁ、何が”ビジネス本”かもありますが…..)。ずっと読み続けているのは漫画だけ(笑)

書店をそぞろ歩きしていたとき、本書に出逢った。背表紙のタイトルに惹かれた。手にとってぱらぱらとめくりドキンとした。「言葉が違う」と唸った。すぐさまレジへ。むさぼった。

詩人だからかどうか私にはわからない。ただ、「言葉と向きあって慈しんでいる」のだと勝手に感じ取る。直截の物言い。にもかかわらず、書評の対象に惜しみない愛情を注いでいる。

さて、お尻は性と排泄、快楽と羞恥の中間に位置するもの。「この曖昧でどっちつかずの淡色のゆらぎのなかに」エロスがあるのでは、と著者はいう。「女性器中心的な性愛世界よりも複雑なエロティック・ファンタジーを呼び起こす」。[…]そういえばどんな人にも、その人というものと、その人のお尻というものが、あるように思う。ふたつはときにはなればなれのこともあり、その落差がおもしろい、はずかしい、愛らしい。お尻がみえやすい季節にふさわしい、贈り物である。

『読書の階段』 荒川 洋治 P.105 「お尻はひとつ話はいっぱい(アナル・バロック 秋田昌美著・青弓社)」

読んでいるこっちは赤面。でも「愛らしい」ときっぱり。ときおり「エロス」の書評が織り込まれているけど、いずれのエロスにも優しい視線が注がれている。それ以外の書評にも。

情報過多で手におえなくなりこの世全体を見ようとする意欲が薄れたせいか、茶、菓子、酒、蝶、鳥など個別にしぼった本がいまはやる。それらはよく整理されているものの読み終わっても達成感がない。お茶なりお菓子なりが、ひとり盛装してすうっと通りゆけていく感じがするものだが、本書は、文士たちが残した言葉をとても注意ぶかくうつしとっている。カフェの味わいは、コーヒーでも建物でもない。言葉がたてる香りのなかにあるようだ。P.147 褐色の鏡(ウィーンのカフェ 平田達治著・大修館書店)

登場する書評には「中身」が記されていない。対象の本と著者の交錯を「物語」のように仕立てて書く。だから対象の本を読んでいない私は、どんな内容かわからない。あらすじすら書いていないときも。

「中身」を書かずに「書物への愛情」を伝える。そこに言葉の「妙」がある。