ムダの中に精神的な豊かさ

部屋の片付けをしていると、REAL SIMPLE JAPANの1月号がひょっこりでてきた。1月号といっても2007年1月号、1年前。「アレ、古いモノはこのあいだスクラップにして残りはすべて捨てたはず」と首をかしげながらパラパラとページをめくる。「好きなものがいちばん似合う」という文章で手をとめた。写真の人物は、かつて米シティバンクの銀座支店長(当時31歳、最年少) を務めた女性。今は実家の老舗呉服店を継いで活躍されている。

伊勢由に就職して、着物の世界について一から学びました。やればやるほど、伝統の奥深さに魅せられます。例えば、日取りにこだわるお客様は着物を作りたいという注文を大安の日にします。私どももそうした方には、やはり大安の日に着物をお届けするようにしています。いつが大安なんて、シティで働いていたときには考えたこともありませんでした。それは一見、非効率でムダなことかもしれませんが、そうしたムダの中に精神的な豊かさが宿るのではないかと思います。P.78

相対的な”ムダ”もあると思う。何が”ムダ”かわからない、というか。それをムダと言うのかどうかはさておき。ムダの中に宿る精神的な豊かさを感受するのはお客さま。それをコントロールできない。試行錯誤を続けるしかない。でも、その豊かさを求める人は確かにいる。その豊かさが「規矩」であったり。

品のない言い方をすれば、ムダの中に宿る精神的な豊かさを感じとる人は金を持っている、と思う。お金持ちの意味、じゃない。と思うとした、 おっと、私は金を持ってないから妄想。

持ってないなりに慎ましやかに過ごせば、貧すれば鈍するに遭遇するも乗り切れる。が、つらいのは、”金が必要だ”と実感する時。それは、「ほんとう」に出会ったとき。これはすごくツライ。誤解のないようにテンプレートしておくと”物質”としての「ほんとう」。

(物質としての)金がかからない「ほんとう」は幻想だろう。「ほんとう」を享受させてくれる人々に出会ったとき、金はいる。それも今の世の単位に換算すれば、総じて”高い”。そこに善悪を付加するとややこしくなるので踏み込まない。

何が「ほんとう」 か。効率の権化やムダの塊、両極にない。先人の知恵を拝借して手がかりのない物事を探し求めた結果。それを中庸と言うのかもしれない。偶然と必然の狭間を彷徨って探し求めている人が発する雰囲気を感じとるお客さま。両者の空間にはゆるみのないはりつめた気とたおやかな時。醸成。

金を持っている人(再確認、金持ちじゃない)から見聞するふるまい。金の使い方の勘所をご存じだったり、絶妙なさじ加減を体得されている。

ムダはそぎ落とすもの。しかし、そぎ落とした結果、「何を」を忘れてしまいかねない。 そぎ落とすには「何を」を自問。修養を積む日々のなかからムダの仕訳ができるのだろう。もう少し妄想をふくらませば、ムダの中に精神的な豊かさがあるのではなく、ムダを精神的な豊かさに変える立ち居振る舞いを知らず知らず身につけていらっしゃるじゃないかな。

ほんとうの物質とゆたかな精神。しなやかな両輪。