[Review]: 文章のみがき方

文章のみがき方 (岩波新書)

インターネットの”なか”、ブログが登場して「書くこと」がぐんと身近になった。同時に”格差”も目につく。格差とは質、だけじゃなく、書くヒトと書かないヒト。忙しいヒトは書かない。当然だ。そんな暇があるなら仕事が待っている(はず)。他方、書きたいけど書けない、と言うヒトを耳にする。不思議。「書けない」のニュアンスが難しい。ピンとこない。私は乱筆悪文、意味不明の文章を書き散らす。質は? 知ったこっちゃない。読み手の評価を気にもとめず。「書くこと」に抵抗感がないからますますわからない。ただし、ちょっとでもうまくなりたい気持ちを持ち続けている。なので”文章にまつわる”モノを手当たりしだいに読みまくる。

自分の文章に自分が不満をもつのは当たり前のことです。そしてときたま、自分の文章に「ちょっと満足する」ということもあるでしょう。技巧的なことは、気づいたら直せばいい。しかし、自分の観察の不十分さ、ものを見る目の浅さ、自分のなかの自分勝手な思いこみ、考えのいたらなさなどは気づくのが難しい。でも、気づいたらやり直せばいいのです。
気づくためには、しっかりと自分に向き合うことです。己のおろかさに向きあうことのないおろかものよりも、己に向き合い、己のおろかさに気づき、そのおろかさをなんとかしようともがいているおろかもののほうが、数段ましでしょう。
問題はこころのありようです。

『文章のみがき方 (岩波新書)』 辰濃 和男 P.218

『天声人語』を14年間担当した著者の筆力を前にして黙々と頁をめくった。「紋切型を避ける」ことをせず評するなら舌を巻く。「借りものでない言葉で書く」なら14年間染め抜いた色といったところかな。技術的な指南から心構えまで余すところなく伝える。「正直に飾りげなく」書いているけど「自慢話は」書かない。「単純・簡潔に」書き、無駄のない文章。耽読。

書いて実感した。己と向きあうという行為。

「どうして書くのですか?」と質問に、「わからない」と私は即答する。ただ己と向きあいたい、その手っ取り早い手段が「書く」だった。長続きしそうな手段を他に見つけられなかっただけ。このブログと裏のブログをときおり読み返す。書き直したりも。その都度、「おろかだなぁ」と発見、ためいき。だからやめられない。

己と向きあいたいから「毎日、書く」をめざしたい、「書き抜く」ことも厭わない。そして、すべての表題が動詞であるように「動詞」を心がける生活を営みたい。

「書きたい」から「己と向きあう」のじゃないと思う。「己と向きあい」たいから五感を深め感受性を強めたくて現場を歩く。小さな発見を楽しむ。ゆとりが必要だ。30分でもそんな”暇”をつくれば、言葉がわきでる。心の中で爆発する。感情が先か、言葉が先かなんて考えない。己と向きあった結果、勝手に手が動く。その手にしたがいことばを記す。あとで読み返し、己のおろかさに気づく。

そんな毎日を積み重ねたすえに何が待っているのか、と考えたら終わりだろう。別に気にとめない。

頭が悪く語彙を持たない私。読了して確信。誰でも書ける。問題は「自分と向きあう時間」を自分でもうける勇気を持っているか否か。忙しくて書かない人には余計な話。さりとて「書く」のか「書かないのか」と迫るつもりもない。

「書く」のも自由、「書かない」のも自由、その自由をうらめしそうに眺めるのも自由。どこに立つのか。「私は書かない」というテーマでも「書ける」。毎日、書かない理由を書いていけばいつか文章は研ぎ澄まされるのでは、なんてちらっと頭によぎったり。