[Review]: ぼちぼち結論

ぼちぼち結論 (中公新書)

表題が妙味。2001年から7年にわたって『中央公論』に連載した「鎌倉傘張り日記」が終了した。ここから『こまった人』『まともな人 (中公新書)』が出版された。7年間、日本の社会も変わったし、私自身の意見もずいぶん違ってきたと先生は言う。計3冊の読後感は「ずいぶん違った」と受け取らなかった。ということは、筆者と読者の私に差異がある。この差異がオモシロイ。相手は自分の主張をどう受け取るか? そんなものコントロールできない。そこから伝達がはじまる。

まだなんとか死なずに生きているが、あとは付録にすぎない。もっとも世間がこの先どうなるか、まだ見てみたい気持ちはある。予想通りになったのでは面白くない。予想が当たれば嬉しい。そういう矛盾した二つの気持ちを抱えたままである。

『ぼちぼち結論 (中公新書)』 養老 孟司 P.241

もともと社会的関心が高くなかった養老先生。だけども7年間、あまたの社会的事象を見てブツブツと書いてこられた。どこまでホンネかわからない。養老先生と対談した内田樹先生は、対談の大半を掲載できないとどこかで書いていらっしゃった。ラディカル”すぎる”らしい。編集もできない。ナマをご覧になった声から察するに毒をおさえた執筆なのだろう。それが7年間、自家中毒もころあいかと邪推。

社会的関心が高くなかったから老いて自然にむかったのか、もともと「自然」がフィジカルにまとわりついていたのか。そこに興味をもつ。先生の半分にも満たない年の私。それがもう自然への関心が残った。早いか遅いかはどうでもいい。とにかくそれが残った。

本書には数々の「自然」が登場する。だからますます読み込みたくなる。「自然」に目がいくと、時間軸が伸縮し、今から逃避して超克したくなる。晴耕雨読とはよくいったものだとつくづく感嘆。6畳の人工だらけの部屋のなかでひとり人工の機械をつかって仮想の世界へ自分をインストールする。USBメモリーが数GBに突入した昨今、「そのうち浅慮の私なんてUSBメモリーに格納されてしまうんじゃないか」とおびえる。

だからふとしたとき、この部屋のなかにあるものを支える根本に目がいく。現代は自然が残した石油を人工に変換して反映した。なんとなくそこにパラドックスが棲んでいるような。先生が提示する根本の問題、それは「人はどこまでエネルギーを必要とするか」。問題は埒外ではなく自分の足元にころがっている。

エネルギーはいずれ払底する。それなら将来の文明は、人を訓練するしかない。そのために必要なものは、人に決まっている。「人は石垣、人は城」。「米百俵」も同じことである。それをいったのは外国人ではない。われわれの祖先である。

『ぼちぼち結論 (中公新書)』 養老 孟司 P.209

古来、祖先は「わかっている」ことを残してきた。だから「答えがある」はずなのだろう。先人の残したものは”ある”、だけどそれは私の中に”ない”。”ない”を”ある”に変えたいと思う。それが「わかった」だろうと思う。それにはただフツーに生活を送るだけだ。

だけど「フツー」がやっかい。ナニがフツーなのかさっぱり。自然と人工、足元を眺めると「矛盾」もあんがい目につく。私の矛盾、エネルギーをもっとも使うテリトリーの仕事に携わるもいずれ降りなければと抗う自分。もういいだろうと思っている。なのに行動に移せない自分。自己嫌悪。

私がぼちぼち結論を書くのはまだほど遠い。