[Review]: プロフェッショナル原論

プロフェッショナル原論 (ちくま新書)

「プロ」全盛の時代。あまたの議論(ゼネラリストかスペシャリストか)は繰り広げられ、あまたの書籍は書店にならぶ。自然淘汰と人為淘汰。多様化したニーズに応える高度な技術を身につけた人をプロと呼称するようになった。私はこの風潮にギモン。会計事務所にお世話になっていたころ、「プロだから」と耳にした。耳から聞こえてくる「プロ」と自分が体得した技術の乖離。己を一度もプロだと自認したことないのに周りはプロだという。不安と嫌悪。そもそもプロとは何か?

プロフェッショナルとは、一言で表すならば、「高度な知識と技術によってクライアントの依頼事項を適えるインディペンデントな職業」と定義することができる。

『プロフェッショナル原論』 波頭 亮 P.15

「プロとは何か?」の解を掴む前に会計事務所を辞めた。いまでもわからない。ただ、わからないなりにプロになれないことはわかった。矛盾しているのは承知。だから逃避して「降りた」。私の携わっているウェブサイトの制作はアマでもできる。むしろプライベータのアマでスゴイやつはゴロゴロいる。

そういった認識で本書を読むと、自分が想定している「プロ」とは異なる像、「プロフェッショナル」が浮かび上がる。

  1. 極めて高度な知識や技術に基づいた職能を有すること
  2. 特定のクライアントからの特定の依頼事項を解決してあげるという形式をとること
  3. そして何よりもインディペンデントであること、すなわち独立した職業人

必ずしも驚くような年収を稼いでいるわけじゃない。筆者は東大卒のマッキンゼー出身。同僚やOBは筆者よりはるかに多額の年収を稼いでいる。しかし、本書の原論に照合すると彼らは一概にプロフェッショナルとよばない。さしづめビジネスマンか。

自分の主人は自分自身であり、誰にも命令されず、誰からも管理されない。インディペンデントだから自分さえ存在すれば仕事ができる。資本も組織も大がかりな設備も不要。己の職能一つで稼ぐプロフェッショナルを支える根本は、公益への貢献と深い自尊の念。公益に反するような依頼は断る。ときにクライアントの意向に反してもクライアントにとって最高の結果をもたらすと判断すれば妥協しない。顧客はカスタマーとよばない。あくまで依頼。依頼人の問題を解決する。

すべてはクライアントためにあり、クライアントとの関係は非対称。だから公益を守るために極めて厳しい倫理を己に課す。結果がすべて。成功報酬制を採択せず営業もしない。

そう、こうやって「上っ面」だけを書いていけばツッコミどころは満載。「頭」からして私と違う。同じ東大卒が読めば違ったツッコミもあるだろう。稼いでナンボの人からすれば詭弁に聞こえるかもしれない。

ただひとつだけわかった。それは私は私。プロを呼称するかどうかは他者が判定すればいい。どうでもいい話。一流の大学を卒業し超一流の企業へ就職した人が書いたプロフェッショナルを読む私。その私は私ではない。羨望、嫉妬、諦観、傍観…..いくらでも振る舞い方はある。いかなる振る舞い方も選択しない私。そんな私でいたい。

先人はプロをどう考えたのか? 前提を明確にしないと泥沼にはまりこむだろう。じゃぁフィロソフィーは。座って半畳、寝て一畳と言い、武士は食わねど高楊枝とうそぶいた。

それでいいんだろうと、いかなる振る舞い方を選択しない私をめざす私が独りごちる。それが私のプロフェッショナル原論。