[Review]: 狂気という隣人

狂気という隣人―精神科医の現場報告 (新潮文庫)

先日、名古屋地裁である事件の論告求刑公判が開かれた(参照)。2005年2月、犯人は生後11ヶ月の男の子の頭部にナイフを突き刺し殺害した。男の子は頭部にナイフが突き刺さったまま夥しい血を流しており、母親が抱きかかえて絶叫していたという。検察側は「あまりに凄惨。誰もが計り知れない恐怖を覚えた」と指摘しつつ、「無期懲役が相当だが、被告は当時、心神耗弱だった。遺族の被害感情を考えると断腸の思い」として有期刑で最長の懲役30年を求刑した。

私たちの周囲には数多くのスキゾフレニック・キラー(統合失調症の殺人者)が存在しています。彼らの多くは検挙されても不起訴になり、裁判で事実が明らかにされることもなく、精神病に入院した後何年かすると再び社会の中に戻ってきているのです。

『狂気という隣人―精神科医の現場報告』 岩波 明 P.106

統合失調症の発症率は人口1%。これは全世界で変わらない。スキゾフレニックと呼称される予備軍はその数十倍ともいわれる。本書の物語は「向こう側」の出来事ではない。登場人物はみな”隣人”である。なのに実感がともなわない。いやそれどころか、私が「彼ら」になるとはつゆほども疑っていない。

わずかな入力と出力の違いがまったく異なる認知をもたらす。私と彼らの間に境界線はない。ここから先は統合失調症でこっちは私、なんて明確な線引きもない。あるのは認知の濃淡。でも私には理解不能。松沢病院の現場に驚愕と震撼の連続だった。

日本にはわずか50年前まで病院らしい精神病院は存在しておらず、その病床数は1万床にも満たなかった。現在の精神科病床は約36万床。ただし問題は多い。少なからず精神病院は地方に配置される。ところが人口分布からすると都会の発症率が高い。また世界的には「入院治療から治療ケア」へ移行しつつあるため、日本は精神病患者を劣悪な環境に”閉じこめている”と海外からしばし批判される。

海外から批判される点について、本書を読む自分を内観するとある点に気づいた。それは読み手の自分が登場人物そのものに焦点をあててしまっている点。精神病患者の記述をどうしても「彼(彼女)は」で済ませてしまう。対象人物を眼前から消し去るだけ。それでは何一つ事態は解決していない。システムの問題点を考察する知性。それが求められている。

36万床にものぼる精神科病床を有していても、日本には殺人歴のある精神疾患患者のための専門治療施設が存在しない(*現在は違う)。それが今の日本の問題なのだ。

『犯罪白書』(平成14年度版 法務省発行)の「殺人」の項目に目を向けると、殺人事件の加害者に占める精神障害者の割合は実に9.1%。窃盗や他の軽犯罪と比較すると突出している。精神疾患患者が殺人を犯したのか、あるいはまったく理解不能な殺人事件を「責任能力なし」で精神障害者扱いにしてしまったのか、そのあたりの相関関係を私は解読できない。「狂気の偽装」もあるのだろう。それでも「向こう側」の出来事として法曹界に押し込め、医療界に一任してきた。

だが、「彼(彼女)らは」から「私たちは」に文脈を読み替えないといけない時期にさしかかっている。

2003年7月の国会で「心神喪失者等医療観察法」が成立し、2005年に施行された。一歩前進した。だが旧態依然として”特殊な問題”を片付けているといった印象を受ける。精神疾患患者の犯罪者を殺人者として野に放つのではなく、治療したのち「狂気のない隣人」として社会の成員にカウントする。それにはどういうふるまいが私に求められるのか?

その後、年末年始の間、矢作君は保護室で電気ショック療法の処置を受け、その結果「自殺」のことは忘れて、年明けには多少の笑顔も戻ってきました。[…]やがて家族とも面会できるようになり、二月になると一般室に移りました。自宅への外泊も何回か許可しました。三月になって彼は退院していきました。[…]
「退院したら、何をしたい?」と私が聞くと、「家でのんびりしたい」と彼は言いました。
「その後はどうする?」
「たぶん、学校にまた行きます」
彼は明るい調子で答えました。矢作君はまだ大学に在籍中でした。
約半年後、夏の終わりに、彼は自宅で首を吊って死亡しました。

『狂気という隣人―精神科医の現場報告』 岩波 明 P.194 自殺クラブ