[Review]: 身体から革命を起こす

身体から革命を起こす (新潮文庫)

何がトレンドになるかわからない。社会現象にはその下地が蠢動しているものもある。それらの現象はティッピングポイントを超えると爆発的に感染する。それが、今の「身体」なのかもしれない。甲野善紀先生は内田樹先生の著書にたびたび登場する。身体の使い方そのものを研究している。スポーツ科学全盛の発想とは正反対に位置し、なかば常識となっている動きを否定する。

「私が研究してきたのは、剣術にも体術にも共通するような動きの原理、身体の使い方の原理ですから、スポーツにも応用できます。ただ、それは今日のスポーツの常識とはまったくちがった動きです。だからこそ現代のスポーツの常識では無理だと思いこまれてきたようなことを可能にするのです」

『身体から革命を起こす』 甲野 善紀, 田中 聡 P.14

この言葉どおり先生の動きを目の当たりにしたスポーツ関係者や武道家は目を丸くする。定説では説明のつかない動き。体幹部をねじらない、足で床を蹴らない、反動を利用しない、言い換えれば筋力を発揮させないといった説明を前にして専門家は腑に落ちない。現代のスポーツ科学は「いかに筋力を最大限に発揮するか」が前提。それでも野球、ラグビー、バスケットをはじめ医療関係者などそれぞれのプロフェッショナルが先生のもとにぞくぞくとやってくる。百聞は一見にしかず。

半信半疑で聞きながら実際試してみる。なんとなく今までと身体の使い方がちがう。やがて試行錯誤の末、加齢にもかかわらず若い頃より記録が伸びたりめざましい活躍をとげた選手もいる。

読んでいて歯がゆい。私もやってみたい。そんな気持ちになる。先生の動きは支点を持たない。身体に支点を定めると、「固定」してしまう。それは「居ついて」しまうことになり、生死をかけたような場面では死を意味する。

支点をもたない「身体」の研究に私は思わず快哉を叫んでシマッタ。次のくだり。

今こうしてお会いして話をしているときに、そのなかに自分がどれだけちゃんとおれるかっていうことが、次の展開につながっているという必然感もあるし、同時に、それは完全に自分にまかされているという実感もある。どう自分をこの空間に置くか、身の置き方というんでしょうか、それは身体的な感覚ですよね。それを意識してるとということは、ある流れの中に身をゆだねて無意識的に動いていないということです。つまり、前よりも自由になってるわけですよね。自由だけど、ある必然性を追わないと、次の展開につながらないという実感があるんですよね。そういう両方の実感が、前より強まってます。

『身体から革命を起こす』 甲野 善紀, 田中 聡 P.270

言葉を奪う者に何が与えられるのだろう? とよぎったのは、どう自分をこの空間に置くかという身体的な感覚の在り方だと思う。

言葉は思考から生まれる(と断定できないじぶんもいるわけで…..わかりませんねぇ)。が、その思考と身体を分離してしまっている。先日、そんな印象を抱かせる人が隣に座って対話に入ってきた。しかし、対話にならない。一方的に自分の意見を主張しているにすぎず、相手から言葉を絞り出せない。空間での身の置き方の感覚が鈍っている(のかもしれない)。

なぜ鈍っているとまで臆断してしまうか?

その人は「私が」という主語で語る。語りの支点が定まっている。固定されてしまっている。そして、筋力(=ため込んでおいたフレーズ)を最大に発揮するためにしゃべる。理路整然とした意見はどこかで聞いたような語句がならんでいる。

甲野先生に投げられると、「投げられた」とう感覚が消え、自分から飛び込んでいくような錯覚におちいるという。「気持ちいい」とまで口にする人もいる。まさに「聴く」がそれにあたるんじゃないかなぁと思う。

「おお、おれはこんなふうに投げられたかったのか?」と思わせるような投げ方。問いかけ方。

思考と身体感覚が結びついてきて、その感覚が『できる』という感触を持ったときには、頭のほうでも、なんとなくやり方を思いつくようです。思考は身体感覚によって生まれるものと言えるかもしれないですね。

『身体から革命を起こす』 甲野 善紀, 田中 聡 P.204

「身体感覚の幅が広がれば、そこから生まれる思考の幅も広がる」と先生は言う。類推や応用から発想のヒントを得るのじゃなく、「一通り」しかないという呪縛が思考を一通りの枠に閉じこめてしまう。その呪縛から身体を解放したとき、「別の思考」を獲得する。

目の前にいる人は「一通り」でないんだよなやっぱり。わかるわけないから。なのに「わかったように」話す人が空間に混ざったとき、その空間での自分の身の置き方が、いまのオレにはわかんない。それがマイッタ。