[Review]: 脳のシワ

脳のシワ (新潮文庫)

『脳のシワ』 を読んだ。ふと書棚に目をやり養老孟司先生の著書をずいぶん読んできたんだなぁと気づく。とはいえ専門分野の書籍( 『唯脳論 (ちくま学芸文庫)』を除く)は読んでない。わかる・わからないすら判断できないのでふれてもムダだから。じゃぁなぜ読むか? 対偶がすぅと身体に入ってくる快感。それを忘れられない。あとは、先生のワガママか。先生曰く、「河合さんの訃報を聞いて、私はもっとワガママをしようと思った」という言動は意地悪ばあさんみたいで諧謔にみちあふれている。現象から本質をつかみ取る毒舌ここにあり。

現代社会ほど死が語られ、そのわりには死の蔭が薄い社会はない。昨年、必要があって『平家物語』を読み直した。うかつな話だが、この物語がまさに死者の書であることに、やっと気がついた。ほとんどすべての登場人物が死ぬのである。人が死ぬことはわかりきったことだが、現代人は自分が死ぬとは思っていない。死について語れというが、それだけに自分が死ぬとは本気で思っていないのである。本気で思っていれば、他人から死の話を聞く必要などない。死はそれぞれだからである。

『脳のシワ』 養老 孟司 P.36

先生が指摘するように私も「死に触れた」ことはない。肉親も含め、誰の臨終にも立ち会っていない。小学5年生のとき臨終直前の祖父を見舞った。末期癌でほとんど反応できない祖父に私が大きな声でよびかけ手をにぎったとき、かすかに口元がゆがんだそうだ(私は覚えていない)。

そして自宅へもどった数日後、祖父の家は「日常性が乱され」て、なにやらバタバタしていた。「おじいちゃんが帰ってくるよ」と母親が言ったとき、私は喜んだそうだ。ほんとうに帰ってくると思ったのだろう。それが違うと理解できたのは、骨を拾ったときだったような気がする。というのも、祖父の死のためかその前後の記憶がない。だから「そうだ」と「気がする」しか書けない。

私にとって死がもっとも近かったのはこれぐらい。だから「現代人は死を活字で読んだり、耳から聞こうとする」ように、私もむさぼった。でも、結局のところわかるはずもないし、私がむさぼったのは、「死」ではなく「死に方」にすぎないとようやく気がついた。いかなる場所でどのように鬼籍に入ってもそれは「死に方」だろう。もちろん感情を取り除けたらだけど。

「死」そのものは、日常生活のような「ああすれば、こうなる」といった原理で把持できない。「ああすれば、こうなる」と死を考えれば、先生がよく口にする「タバコを吸えば」「ガンになる」と狂騒するのだろう(先日も雑誌の対談内容が巷を賑わせた)。

それでは、その通りにしたとしよう。お年寄りがそうやって活動すれば、脳は薄くならない。結構なことである。しかし、歳をとって脳が厚くなったら、なにが起こるか。厚い脳は、もちろん余分に血液を必要とする。したがって血管の負担は増す。それなら脳卒中の確率は増える。血管のほうは、勝手に血管の原理で老化するからである。以下同様だということが、想像力の多少ある人には、もはやおわかりであろう。どうしたって、どこかは歳をとる。それを一部だけでもどうにかしようとしても、そうはいかない。人間は全体を丸めて、それで「一人」なのである。

『脳のシワ (新潮文庫)』 養老 孟司 P.111

先生のいう「多少」のさじ加減はわからない。それでもテレビを中心とした「ああすれば、こうなる」系のコンテンツは、裏を返せば「多少の想像力もない人」が制作に携わっているのだろう。べつにテレビだけではない。とにかく「ああすれば、こうなる」で解決できると信じる風潮なのだろう。

本書を読んで再確認できた。「ああすれば、こうならない」とひねくれてみよう。どんどんひねくれる。「ああすれば、こうなる」を批判しない。ただし、自分は「ああすれば、こうならない」と考えよう。

そすれば、どうなるか。ああ、そうか、これを先生は 『バカの壁』 と呼んだのか。得心。さて、再読すべく書棚をさがすとしよう。