感想文#4 まとめ

私の身体は頭がいい (文春文庫)

感想文#3につづき、最後にお二人の感想文(衛生士の藤林です , 衛生士の谷口です)をいただいたじぶんの気持ちをまとめてみたいと思います。結論から述べますと、「ハモる」って大切だなぁと再確認しました。唐突に「ハモる」と書いてもの何のことやらですので、例のごとく他人の叡智を剽窃してみます。じぶんで考える能力を持ち合わせていないご容赦を(笑)

さきごろ、内田樹先生の 『私の身体は頭がいい (文春文庫)』 内田 樹 が文庫化されました。2003年に出版された単行本です。で、さっそく手持ちの単行本を捨てるために文庫化された本書を再購入し、良い機会なので再読しました(といってもふだんからページをつらつらめくっているのですが…..)。そこに次の一節があります。

なぜ「自分がいちばんしたいこと」だけを選択して半世紀生きてきたら、レヴィナスを読み、合気道を稽古し、能楽を習うことになったのか、その理由がようやくこの年になってだんだん分かってきた。
すべては最終的には同じところに収斂する。
私が稽古していることすべて「他者から送られる響きを聴き取る」というただひとつのみぶりに集約される。
「他者」という概念が人間的水準で意味を持つためには、「他者から送られる響きを聴き取る」という経験が身体的にどのようなものかを知らなければならない。P.290-291

「他者から送られる響きを聴き取る」というフレーズが染み入ります。「他者」は己を含み、「響き」は声なき声を含む時空から発散されるシグナル、それを「聴き取る」ための「身体」だとわたくしは愚考しています。そのとき、わたくしがもっとも心にとめていることばは、「差異」です(しつこいですけど…..)。ただ今のわたくしの赤貧な語彙ではほんとうに伝えたい意味を表する単語を知らないので「差異」と使っているだけです。そのあたりまだまだ模索中です。

わたくし自身は一意的な解もふくめてあるがままお二人の前で「衛生士として何を学ぶべきか?」を話しました。しかし、その話を耳にされたお二人の受け取り方はおそらく違います。現に、感想文がそれを端的に表しています。

この「差異」が奏でる「響き」をわたくしは聴き取りたいと願っています。

「響き」というのは、「割れる」ことでしか発生しない。静止したソリッドな単体からは何の響きも生まれない。単体に亀裂が入り、異化が始まり、中枢的に「統制された」システムが非中枢的に「自律する」システムに変容し、身体各部に「ずれ」や「温度差」や「密度差」や「時間差」が生まれるときに、はじめて「響き」は生まれる。P.291

今、お二人がM先生の医院にお勤めされて、院内に「割れ」が発生しています(と推察します)。今まで、安定して響いていた院内に違和が入ってきて、「異化が始まり」ます。それは、個々人の空間と言動と思考の伸縮を余儀なくされます。物理的に考えてもしかりです。放言すれば自分の周り5mが「私の空間」だと身振りしていたところに、新しく入ってくるわけですから、周り3mに縮めたり、ときには周り7mに伸ばしたりして調整します。

そのプロセスによって、「中枢的に「統制された」システムが非中枢的に「自律する」システムに変容し」ていき、やがて「ずれ」が生まれ、「響き」はじめます。最初は、響かないかもしれません。反対に、響いても「雑音」であったりします。というのも、「差異」や「異化」を感じとりはじめると、ときに暴走し、「好き勝手」にふるまうからです。そのふるまいを「判断」と錯覚して。

それは単なるアナーキーとは違う。アナーキーというのは、それぞれにばらばらになったモナド的な個体が「自己保存」のために他の個体を攻撃し、道具化し、支配しようとするエゴイズムの相克態のことである。そうではなくて、「響き」というのは、保存すべき「自己」という観念そのものが揚棄された場で生まれるものだ。「響き」とは複数の震動体・発音体が、それぞれ決して互いを否定せず、阻害せず、統制せず、ただ、互いの音を受け止め、享受し、装飾し、支えることに「我を忘れた」ときに、発音体同士の「あいだ」に発生する「誰の所有にも帰属しない和音そのもの」のことである。
それを「聴く」。P.291

「医院の根源」を心底理解すれば、あとは各人が「あいだ」を発生させ「誰の所有にも帰属しない和音そのもの」を奏でてほしいと厚顔無恥なわたくしは愚考します。それが、仕事柄どうも違和感を抱くのは、「医院の根源」を身体にインストールさせずに、「エゴイズムの相克態」になってしまっている現場もあります。

「どうもわかりにくい」という言葉が跋扈し、クリアカットな言説やロジカルな理路が求められ、善悪是非で語られる。「わかりやすい」を賞賛する雰囲気。そこから蠢動する「原理」が互いに衝突する。やがて「必ずわかる」という願いがいつのまにかイデオロギーに変容してしまいます。すると、互いが否定し、阻害し、統制しはじめ、ただ、互いの音を受け流し、棄て、粉飾し、はしごをはずして「我を張り」ます。純化か闘争。

とりとめのないことをつらつら書いてきました。じぶんでもよくわからず書いています。ほんとうに申し訳ありません。

これでさいごです。

「それを「聴く」」のはわたくしでもあり他者(=来院者)でもある。正解がひとつではなく選択肢がいくつもある医院、その「あいだ」をたおやかにふるまうスタッフのみなさんがいて、そこで「ハモる」響きがある。そんな歯科医院にお世話になりたいとわたくしは願っています。