[Review]: 知的な距離感

知的な距離感

この本で説明するプライベートエリアという言葉は、「プライベート(私的な)」という単語と「エリア(空間)」という単語の組み合わせです。心理学や行動学では「パーソナルスペース」と呼ばれることもあります。簡単い説明すると「他人に侵入されると不快に思う空間」です。

しかし、これは土地や住宅の話ではありません。いま本を読んでいる、あなたの周囲をオーラのように包んでいる、見えないバリアのようなもの、と説明すると想像しやすいかもしれません。

『知的な距離感』 P.23

前田知洋氏の著書。著者は日本のクロースアップ・マジック(観客のすぐそばでマジックを披露する)の第一人者。クロースアップ・マジックのマジシャンは「距離感」を大切にあつかう。観客との距離感をはかりそこねたとき、マジックのネタがバレかもしれない。そればかりか、観客から嫌われることすらあるという。著者自身、「プライベートエリア」をはかりそこねて数々の失敗を犯したらしい。

マジシャンがマジックの経験を土台に書くプライベートエリア。ただし、マジック独特の雰囲気を伝えているのではない。周囲との距離感をはかるふるまいは、仕事場や生活で求められる。それにこたえるかのように、本書では、マジックの話のみならず、歴史、建築、脳科学、行動心理学などにふれている。

プライベートエリアは、物理的な距離感と精神的な距離感を内包する。その距離感は千差万別。プライベートエリアが広い人は、混雑した列車やエレベータにストレスを感じる(もちろん感じない人もいる)。そういう人たちは携帯電話に目を落としたり、音楽を聴いて、周囲との距離を置く。

他方、プライベートエリアが狭い人は、他者が常にその外にあるから不安に陥る。そういう人は、話の内容を何度も相手に確認したり、違う言い回しのように聞こえて実は同じ内容を何度もしゃべっていたりする。

プライベートエリアのサイズが異なると、自分もしくは周囲がストレスを感じかねない。では、同じサイズの人がいるかといえば、そうそううまくゆかない。

私たちの周りにはたくさんの工夫がある。それらを意識・無意識かかわらず受け入れている。

  • ほの暗く、椅子が密接したクラブやバー
  • 明るい舞台、暗い客席
  • 半円のテーブル

わたしたちは物理的な距離を接近させるための工夫、精神的な距離を縮める仕掛けを使いこなす。そうしてプライベートエリアを互いに調整する。接近をもたらすのは”デザイン”。

他方、わたちたちの何気ない仕草にも”デザイン”が存在する。

  • アメリカの挨拶(握手とハグ)
  • 会話のなかの腕組み
  • テーブルに女性や目上のひとが着くとき、じぶんはイスから立つ

これらの仕草やマナーはプライベートエリアを調整する役割をはたす。

手前味噌だが、むかし会計事務所を母体としたコンサルティング系の会社に勤めていたとき、本書に登場する例を体験した。入社二年目の当時、わたしは会計事業部からコンサルティング事業部へ移籍するかどうか悩んでいた。そんな矢先、コンサルティング事業部長から呼び出された。場所はホテルの喫茶店。

事業部長とふたりで店内に入ると、部長は2人席へ向かわず、2×2の4人席に足を運ぶ。そして、「並んで座ろう」とわたしに声をかけ、広い室内を見回すように壁側に腰をかけた。ふたり並んで。わたしはかなりとまどった。というのも、そんなシチュエーションで隣に並んで座った経験を持っていなかったし、てれくさくもあった。また、座り心地も悪く尻がむずがゆい。

ところが、数分後、じぶんの心境の変化を自覚できた。どんな変わりようかはご推察のとおり(笑)
古今東西、人間の普遍心理、「正面で向かい合えば対立を誘発しやすく、横並びになると強調しやすくなる」(同P.82)を体験した。

ところで数年前から、「空気を読む」というフレーズが頻繁に使われるようになった。「KY(空気(Kuuki)・読めない(Yomenai) )」と略したり、「KYR=空気(Kuuki)・読める(YomeRu)」といった反対語もうまれている。

残念なことにこのフレーズが陰湿な行動へとしばし駆り立てるようだ。空気を読むというのは、「距離感」と「振る舞い」をひもといていくことだと私は思う。「距離感」と「振る舞い」、これらはいまに始まった話じゃない。先人たちは金言を残している。

古い日本の教え「弟子七尺を去って師の影を踏むべからず」は、尊敬を距離としての態度に置き換えている例です。「岡目八目」という諺は、傍で距離を置きながら見ている者のほうが、物事を冷静に考察できることを示唆しています。 イギリスにも「傍観者はゲームの最良の手を知る」という似た諺があります。P.165

ことばにとどまらない。芸術にもかいま見られる。静止画を観賞する人たちは、絵画に登場する人物の「距離感」を知らず知らずのうちにはかっている。そして、その「距離感」に人は魅了されていないだろうか。

「振る舞い」はどうだろう。ボディーランゲージは文字どおり”ふるまい”を表現する言語。わたしたちの「思考や感情」が含まれている。身体言語を駆使してわたしたちは、KYRしようとする。

インターネットに囲まれた昨今、「見えない相手」と意思疎通する機会がふえた。顔や身体が見えないからといって「距離感」や「振る舞い」をいい加減にあつかうと、同じ時空を共有していないにもかからず、「KY」という烙印を押される。

他者と空間を共有する仕事に携わる人、もって回した言い方をせずに放言してしまえば、「ビジネスマン必読」といったチープなポップをはりたくなるぐらい一読をおすすめしたい。とはいえ、本書に認められていることを「技術」として読み取ると、しっぺ返しをくらう。「距離感」と「振る舞い」を支える根本、それがすっぽりぬけおちれば洗練されるわけもなく、かえって嫌みになるだろう。

「知的な」というタイトルにこめられ意味を私はそう理解した。