そもそも論

昨日、クライアントのウェブサイトのミーティングに参加する。「継続は力なり」と「そもそも」を再認識。そして今日、「衛生士として、何を学ぶべきか?」というテーマを別のクライアントから頂戴したので、なにやらリンクさせながら以下、愚考。

「そもそも」とは何か。私の口癖は”ウェブサイトは現場の鏡”。リアルな現場の「空間と時間」が仮想世界に反映される。表裏一体。ミーティングの司会者が私を以下に評価した。

「ホームページが単なる道具であるならシンクセルには頼まない」

この言葉を私に預けたのはなぜか。きっかけは、司会者の方の疑問。意訳するけどご容赦を。

「そもそも論になるけど、ホームページで何を訴えたいのか?」

この「そもそも」が現場の空気を醸成する重要な要素だと思う。というのも、「悩む」組織は多い。が、その「悩み」の根本たる「そもそも」を、経営者、もしくは一部の方々だけが「感じている」にすぎない、という組織もある。「そもそも」を俎上にのせる。それには、各々が考える「そもそも」を言葉に変換して「声」に出さなければならない。その声はどんな「色」か。周囲が確認する。

「そもそも」を共有することが目的でない。「そもそも」が導き出されるまでの過程、まだ言葉にもならない、もやもやした塊を言葉にしていく「仕方」を周囲が認識すること、それが大切だと思う。その「仕方」がわからなければ、「そもそも」は各人にとってのそもそもで終始してしまう。「仕方」に気づいていない人はいるのだから。

ミーティングで私が必要とされるのは、「第三の目」になる瞬間。「そもそも」を練り上げていく道中、クライアントの方々は次々と意見を述べられる。そのときの視点は、「クライアントと顧客(クライアントのお客様)」。

しかし、その視点を持ってしても、主語は、「クライアント」でありうる。その典型が、先の参議院選挙で発した安部総理の言葉

「私の戦いが始まった」

この一言によって人心は総理から離れた。

クライアントがウェブサイトを語るとき、その内容が永田町になっているかもしれないと疑う。その当為はクライアント自身である。そこへ、さらに疑う<私>の立ち位置が求められている。ウェブサイトが道具であると判断される方々は私を必要としない。

もう一度問う。

「そもそも論になるけど、ホームページで何を訴えたいのか?」

これは一夜にして成らない。ウェブサイトから「そもそも」を模索するなら「継続」が求められる。

「そもそも」はそもそもと認識した人たちだけの「そもそも」ではない。組織は人が入れ替わる。常にそもそもの「仕方」を俎上に載せておかないと、新しい人には「そもそも」の意味すら発見できない。

「そもそも」が俎上に載せ続けられるか。続けられるか。立ち止まるわけでもない。常にサイトを更新しながら、常に「そもそも」とサイトという鏡から自己を直視する。

ウェブサイトは「継続を力なり」を実感させる。冒頭、ウェブサイトは現場の鏡と独断した。ウェブサイトに一度掲載された情報は「変わらない」、しかし現場は「変わる」。矛盾。

「変わる/変わらない」と分断したとき、組織の細胞は色あせていく。言葉には「対」が存在する。なぜ「対」になるのかいまだわからない。はるかむかしの人々は、なぜひとつの言葉に対してもう一つの言葉を生み出したのか。そこに意味を発見したのか。それが私にはまったくわからない。

ことあるごとにそれをおぼろげながらも考える。「変わる/変わらない」と峻別しない。「変わらないゆえに変わる」という絶対的ゆえに相対的が浮かび上がる。表裏一体、逆もまた真。

映画の山猫の言葉。

変わらないでいるためには変わらなければならない

「変わらなければならない」を生み出す源泉、それは何だろうか?