情報共有に悩む組織

独立してからひとりで仕事をしているので”情報共有”の感覚がずいぶん鈍くなっている。そんなところへ飛び込んできた記事。

「変な会社」が徹底する真っ当な情報共有:ITPro

はてなでは、社員が全員ブログを書いています。業務日報的なものだけでなく、基本的に何でも書くんです。[…]「個人のブログみたいなことを書いても意味がない」と感じる人もいるでしょうか、そうではないんです。[…]社員の置かれている状況や考えを知ることで、管理職の人間が的確にアドバイスしたり、業務上の優れた提案を考えついたりできるかもしれない。だから業務以外の話も書くようにしているわけです。

ここで気になるのは、「書く」を苦にしない人がはてなに勤めたのか、それともはてなに勤めたから「書く」ようになったのか。どっちでもいいか(笑)

とにかく、「書く」環境に力を入れているとテキストから推測できる。”情報共有”をネットワークの”側”に蓄積するとき、「声」をのぞけば、「書く」ことからはじまる。いまなら、「キーボードをたたく」かな。だから、打てなければ絵に描いた餅にすぎない。記事の指摘どおり、”情報共有”はむかしからある。

“情報共有”という言葉は昔からありました。本質は、ツールじゃないんです。重要なのは、「情報を共有することで、自分にメリットがある」という社内の空気を生み出し、そのための仕組みを実現することです。

「社内の空気」とは何か?

それは現場に足を踏み入れて体験しないかぎりわからない。ましてや「空気」は目に見えないから、感じなければならない。「感度」が求められる。そして、空気の醸成に必要な仕組みを実現すべく、ラディカルな運用が求められた(端から傍観すると)。「書く」が評価へと連結している。

手段にすぎないのに徹底している。とうぜん目的があるから。

もしも私が突然いなくなったとしても、会社の売り上げに大きな影響が生じることはないです。私の取引先の情報は、過去のやりとりをすべてブログに書いています。それから社員全員にメールが届く組みになっています。どんなプロセスで仕事が進んだかはすべて記録できているんです。

目的を達成するために、「社外に送るメールを社員全員が読めるように」する。この目的すらも「継続」への一要素にすぎないと思う。

“情報共有”や”人材育成”に悩む組織がある。それぞれの事情があるので、「メールを誰でも読める」ような運営が正解とはかぎらない。それよりも、「継続」への情熱、「成長」への探求、それらの「本気度」が違うのではないか。

戯れ言を吐けば、悩む組織のなかには、「オレは困ってないからいいや」という”全員”の錯覚もありうる。その錯覚が「全体」に化けたとき、何かよくわからない異常をもたらし、それが「社外」へと流出し、「社内の常識は社外の非常識」を瀰漫させる。

自分が問題だと感じる事象は、他者から問題だと「承認」されないと問題にならない。その承認を得るためには、伝えなければならない。解釈を伝えずに、「なぜ私に教えてくれないのだろう」と喘いでいる。

他者に伝えると同時に、遅れてやってくる「我」に気づき、もう一度再考する。そこではじめて、「わかる」こともある。

ウェブ進化論 本当の大変化はこれから始まる (ちくま新書)

組織が数十人規模ならば、組織内の全員がありとあらゆる情報を共有するイメージも湧くというものだが、それが五〇〇〇人になったらどうなるのか、なかなか想像がつかない。あるとき私は、グーグルに勤める友人にそんな疑問をぶつけた。彼は即座にこう言った。
「情報自身が淘汰を起こすんだよ」

『ウェブ進化論 本当の大変化はこれから始まる (ちくま新書)』 梅田 望夫 P.84

情報自身が淘汰を起こす前に、情報を放てない私は誰なのか?