[Review]: 逆立ち日本論

逆立ち日本論 (新潮選書)

この対談では、内田さんに大いに語ってもらいたかった。だから私は聞き手のつもりでいた。内田さんの発言は長くなっている部分があるのは、そのためである。あたりまえだが、自分の発言なんて、自分にとっては、なんの参考にもならない。しかも古希に近くもなれば、他人にとっても参考になるかどうか、あやしいものである。それでも相づちだけでは対談にならないから、いわずもがなのことをブツブツと述べた。

『逆立ち日本論 (新潮選書)』 養老 孟司; 内田 樹 P.6

『街場の中国論』の書評で、養老孟司先生が内田樹先生の思考を「対偶」と評したことについてふれた。それが本書。対談中に登場する。

養老: この人はぼくと同じ考え方をする人だと勝手ながら感じました。考える経路が似ているのではないかと思ったのです。ぼくはそれを「対偶」の考え方と呼んでいます。「AがBだ」というときに、「AがBではないとは、どうしたらいえるだろうか」と、反対側から考えてみるんです。「逆さまから考える」と言ってよいのかもしれません。

『逆立ち日本論 (新潮選書)』 養老 孟司; 内田 樹 P.41

対談しているお二人には、共通項が二つある。

  1. 思考経路が対偶
  2. なんだかだまされたような気をさせる話し手

1.は本書のタイトルにもなっているように、対談中にネタとなるテーマについて「逆さまから入る」思考がかいま見られる。

内田: ぼくたちは、どうして言語があるのか、どうして宗教があるのか、どうして親族があるのか、どうして貨幣があるのか、そういう制度の根源については相変わらず何も知らない。

『逆立ち日本論 (新潮選書)』 養老 孟司; 内田 樹 P.62

煌びやかな逆説と諧謔に満ちた毒舌をくりひろげる。ラディカル。退屈な日々のうちにこそ無数の冒険がひそんでいて、そこに無限の情報源がある。形而下の話題を形而上へと知を運んでいく。

対談本はしばしばもろくてよわい。というのも、そりが合わぬ話者を用意するのはまれだ。本書もその点、養老先生を「邪道の師匠」と敬愛する内田先生にとってそりが合わぬわけがない。にもかかわらずおもしろいのは、「なんだかだまされたような気をさせる」話し手だから。

では、どうしてだまされたような気になるのか。両者が「おばさん」だから(笑)

内田: おばさんの思考って、頭で考えたことではなくて、どちらかというと非常に身体感覚的ですよね。論理がふらふら揺れる。[…]おじさん相手の場合、意見が一度対立すると調整するのが大変ですけど、おばさん相手なら、[…]細部から一つ抽象的な結論を演繹するときは、極端に言えば、どんな結論にいってもおばさんは気にしないんです。

『逆立ち日本論 (新潮選書)』 養老 孟司; 内田 樹 P.15

「論理」や「定義」という単語がしばしば登場する。これらはややもすると首尾一貫していて正解がひとつであるかのように受け取られる。実際、論理が一つ、定義が一つであるとき、「原理」が存在する。原理は自説以外の原理と衝突する。

養老: それぞれの脳の現実とはなにかを追求していったら、いろいろなことがわかっていった。抽象的な数字を扱うだろう数学者には、こちらの想像もつかない数学者の現実があった。「数」という抽象的な、現実にはないものを「現実だ」と彼らは思っている。それは、取材して、直接聞き出してわかったことです。

『逆立ち日本論 (新潮選書)』 養老 孟司; 内田 樹 P.88

その人それぞれの「現実」が脳の中にある。脳には抽象的なものを現実にしてしまう癖があり、それが『バカの壁』につながった。しかし、『唯脳論』『バカの壁』も誤解(適切な表現ではないと思うけど)を招いている。

コミュニケーションの場でやりとりされるのはコンテンツではなく解釈である。そして、その解釈はどちらでもよい。解釈はどちらでもよいとオープンエンドに構える両者、そこから繰り出される話は、高度に抽象的すぎて私にはわからない。わからないなりに書評をしている。だから、支離滅裂だと自覚しながら今も書いている。

内田: 世界の深さは、すべては世界を読む人自身の深さにかかっている。浅く読む人間の目に世界は浅く見え、深く読む人間の目に世界は深く見える。どこにも一般的真理など存在しないというのは、究極の半原理主義ですよね。

『逆立ち日本論 (新潮選書)』 養老 孟司; 内田 樹 P.178

数年前から、「想定外」という言葉が耳目をひく。ここ数日間、原発にまつわる記事を読むと踊っている。ビジネスは「想定」や「前提」が必要不可欠であって、それを設定しないマネジメントはない。本書の思考の仕方をビジネスに適用してしまうと混乱をきたすだろう。しかし、少し立ち止まって、本書から学ぶとき、そもそも、「想定」が一人歩きしてしまっていないだろうか。そう気づかされる。「想定」を覆す勇気と知性を求めたい。

少子化の問題も同様だ。養老先生が「キャリングキャパシティ」を紹介している。今、日本は「増加」を前提に国のシステムを設計している。しかし、「減ってはいけない」と主張しても「減ったらどういう問題が起こるのか?」を議論しない。人口が減少したとき、国を司る人々はシステムを再設計する勇気と知性を持ち得ない。自らの「サイズ」を縮小する当事者はいない。そこが問題。

食料問題もしかり。なぜ牛肉を食べるのかという前提を疑っているだろうか。牧畜は土地を疲弊させ、大量の水を必要とする。たいへん高コストな食料であり、食糧需給の能率からすれば、割が合わない。自然環境の観点からすればもたない。牧畜や農業がもたらす「塩害」が深刻化している。アメリカの国論を決定しているバイブルベルトやインド、パキスタン、中国…..。人口と食料と環境は複雑に絡み合っている。

養老: フィンランドと北海道。フィンランドの人口が五百万人で、北海道は五百五十万人強。フィンランドはひとつの国家で、北海道のほうが人口が多いのに、どうして国並に立っていないのだろうか。

『逆立ち日本論 (新潮選書)』 養老 孟司; 内田 樹 P.145

専門家からすれば言い分はいくらでもある。それを承知で俎上にのせる二人の叡智。「自明の理が自明でない」理由を発見する仕方が対談にちりばめられている。

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