[Review]: 街場の中国論

街場の中国論

『街場の中国論』は、このシリーズの第一作『街場のアメリカ論』と同じく、神戸女学院大学の大学院の演習で私がしゃべったことを録音して、それをテープ起こししたものが原型になっています。[…]こういう「海外事情本」の類は速報性が命ですから、ふつうは少し時間が経つと情報として無価値になってしまいます。でも、私としては、この本をできるだけ「賞味期限」の長い本にしたいと望んでいます。その希望を「街場の」というタイトルに込めました。

『街場の中国論』 内田 樹  P.1-2

演習のディスカッションのなかで内田樹先生が発言した部分を加筆訂正した著書。ディスカッションの参加者(院生・聴講生)は先生も含めて中国問題の専門家でない。専門家の方々が一読すれば、首をかしげる箇所もあるだろう。では、街場のふつうの人々の推論は何を望むのか。

他国の国際戦略や国民性について、あまり大きな間違いをしないで考察する方法(間違えた場合もすぐに修正できるような方法)とはどういうものだろうと思っている若い読者がいたら、そういう人たちにとってはそれなりに有用ではないかと思います。P.4

内田樹先生の著書の特徴は、「題材は何でもアリ、ただしそこから導き出される推論は普遍である」と私は愚考する。普遍が適切かどうか。よりフィットする語彙を探している途中。そして、推論の「仕方」をつまびらかに叙述する。養老孟司先生は、対談でその思考を「対偶」と称した。とはいえ、対偶だけで物事をとらまえない。

僕は日本人ですから、中国政府が反日教育を国策として行ったことに対しては強い不快感を持ちます。反日デモの映像を見ても、やはり不快になるし、不安になる。でも、そのときの「民族的憎悪の対象」であることの不安や不快と、中国政府がこの排外主義的な「政治カード」の使い方を誤った場合に起きる「国家的危機」に対する不安や不快とは、次元の違う不安です。P.32

「次元が違う」という表現がミソであり、ここが民族的憎悪の対象とする人々から批判される。

中国が実効的に統括され安定した国家でありつづけることが、世界に損失よりも多くの利益をもたらすと説く。たとえ中国で排外主義的なイデオロギーが瀰漫したとしても、中国のガバナンスが崩壊して民衆がボートピープル化して本邦へ流入するよりも、被害の帳尻が合う。

このロジックが批判の的になった。先生のブログ内で「非国民」とレッテルを貼られたらしい。

たしかに、サッカーアジア杯の日本戦を観戦する中国のサポーター(2006年重慶)や反日デモのような映像を目にしたとき、嫌悪の情をいだく。しかし、それらがもたらした実害は、中国がカタストロフィをむかえる損害と比べるまでもなく小さい。「被害の帳尻が合う」ロジックが本書にしたためられている。それが、「仕方」である。

中国のことを考えるとき、彼我の抱え込んでいるリスクのスケールの差を勘定に入れないといけない。

十三億人を統治するために必要なマヌーヴァー(政略)は、たとえばデンマークの首相が五百万人のデンマーク国民を統治するとき駆使するマヌーヴァーよりも、はるかに狡猾で非常なものにならざるをえない。これは当然だろうと僕は思います。P.26

公称十三億人、実際の人口は不明ともいわれ、失業者は二億人とも推測される国土は、暴論を吐けば、統治していると私は思わない。「統治しているように」みせかけているのだと思う。だからこそ、何らかの壮大な思想や物語を求めるのではないか。しかもごくシンプルな。

先生はリスクのスケールの差を政治にフォーカスしている。リスクのスケールの差は食にもあてはまる。日本のように考えてならないし、中国の食品問題を私たちの基準を用いて判断するのは危険だ。

本書のなかでもふれられている中華思想や国内事情を勘案したとき、中国人はひょっとすると、「今の国(政権ではない)は長く続かないかもしれない、だから儲けられるうちは何をしてでも儲けよう」と考えたあげく、選択した行動かもしれない。中国という国家と民の関係は複雑怪奇と単純が混濁している。

中国の場合、近代史百年を振り返って、「あのときはこれでうまくいった」という経験があまりないのです。あまりないというか、ほとんどない。文化大革命を精算したあとの一九八〇年代以降の改革開放路線の成功を除くと、中国にとって「誇らしい期間」というと一九三七年の抗日統一戦線の結成から一九四九年の中華人民共和国の建国を経て、朝鮮戦争に勝利する一九五五年までの期間でしょう。それは言い換えると、毛沢東に率いられて、日本と戦い、国民党と戦い、アメリカと戦った時期ということです。[…]毛沢東を抜きした成功体験というものを中国近現代史は持っていないのです。P.143

本の帯には次のようにある。

反日運動も、文化大革命も常識的に考えましょ。予備知識なしで読み始められるなるほど!の10講義 日中関係の見方がまるで変わる

一読して「常識的」と受け取れるか、「見方がまるで変わる」か、それは一度己の予備知識と主観を「リセット」できるかどうかではないか。「リセット」できる己と対話するとき、「仕方」が浮かび上がってくるように思う。

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