あるひとつの道具が「待つ」を劇的に変容させた。携帯電話。国民の半分以上のひとが携帯電話を持つようになって、「待ち合わせ場所」がなくなった。待ち合わせ時間に遅れても気にしない。電話かメールで「遅れる」と伝えればよい。ひととひとの交信は空間の隔たりと時差をなくした。
未来というものの訪れを待ち受けるということがなく、いったん決めたものの枠内で一刻も早くその決着を見ようとする。待つというより迎えにゆくのだが、迎えようとしているのは未来ではない。ちょっと前に決めたことの結末である。[…]結果が出なければ、すぐに別のひと、別のやり方で、というわけだ。待つことは法外にむずかしくなった。「待たない社会」、そして「待てない社会」。
『「待つ」ということ』 鷲田 清一 P.10
手紙を書く。投函する。そして返事を待つ。その間、ひとは、
- 待ちかまえ
- 待ち遠しくて
- 待ちこがれて
- 待ちわびて
- 待ちあぐねて
……いくつもの「待つ」を体験する。ときに「待ちぼうけ」を味わう。
「待つ」ということ、それは想像力を育む。待つ対象の情景を心に描く。時間に濃淡が表出する。待っている間は濃く、つかれたころに淡くなる。そして、感性をとぎすます。待つというのは、ただ待つのではない。予期したり予兆を期待している。
私は、携帯電話を持っていても「待つ」という行為を厭わない。「待つ」というのは絶望の向こう側にあると私は思う。待っても待っても届かない、待っても待っても響かない、待っても待っても来ない、この瞬間を体験したとき、絶望と希望の濃度が等しくなるような奇妙な感覚に襲われる。筆者はこの現象を切れ味するどく、かろやかに「ぎりぎり」と表現した。
まず考えられるのは、待てなくなるぎりぎりのところ、つまりは限界にまで行くということだろう。待つことがついに終わるとき、終わるところまで、ということである。それは長く待った願いの成就のときかもしれない。逆に、再度ということがもう不可能な、最後のこれきりの断念であるかもしれない。ようやっとたどり着くのであれ、どんな小さな可能性も視野から消えてなくなるのであれ、この「ぎりぎり」は、待つ者の彼方から規定された「ぎりぎり」である。もう少し正確に言うと、待っているこのいまではなく、待つことがいつか終わる、その終わりの場所から規定される「ぎりぎり」だということである。P.79
「待つ」に秘められた情感。たった一言の「待つ」のなかに驚くほどの情感がこめられている。自ら「待つ」もあれば、受け入れるような「待つ」もある。受け入れる「待つ」、それは「聴く」ということ。
答えのない物語に耳を傾ける。自分には予測不可能の物語。訥々とこぼれ落ちてくる言葉、まったく予期できない「他者」の来訪を待つ。それはとてつもなく果てしない。
だから私たちは待てない。待ちきれない。言葉を紡いでしまう。自分の予測できる「物語」へと変換し、「自作した物語」を口にする。その刹那、話し手はうまくまとまった「物語」にとびついてしまうのだ。それは「待つ」ではない。
待たずに待つこと。待つじぶんを鎮め、待つことじたいを抑えること。待っていると意識することなくじっと待つということ。それは、ある断念と引き換えにかろうじて手に入れる‹待つ›である。P.55
断念と引き換えにしてまでも「待つ」ということ。なぜ人はそうまでして「待つ」のか?
この問いが頭からずっと離れなかった。「待つ」ことを経験すればわかる。「待つ」は「待たれる」と表裏一体。「待つ-待たれる」はつながっている。その「つながり」を求めて、確かめたくて待つのかもしれない。「待つ-待たれる」はけっして等しいわけでない。均衡していない。アンバランス。どちらに立つでもなく、ときに待ち、ときに待たれる、そこにつながりがあり、それは自と他を体感させてくれるのではないか。その体感が己を‹私›へと覚醒させる。