[Reivew]: 「聴く」ことの力

「聴く」ことの力―臨床哲学試論

この間、ふれる について書いてみたが、そのときに読んでいた 『「聴く」ことの力―臨床哲学試論』 の最終章を深く入り込むように読んだ。最終章の表題はホモ・パティエンス。無学の私には初めて目にした言葉。

《ホモ・パティエンス》、苦しむひと。受ける、被る、苦しむ、容れるといった意味をもつラテン語の動詞patiorからきていることばである。パッション (passion)も同じ語源からくる名詞だが、これには受動・受苦・受難という意味のほかに、情念の意味もある。『「聴く」ことの力―臨床哲学試論』 鷲田 清一 P.233

V・フランクルは、「ホモ・パティエンス」の論考のなかで「理性的な判断のひと」である前に「苦悩を引き受けるひと」であれと語っている。”ひと”は深いところで「受難(passion)」であり、「苦しむひと(homopatiens)」であるという。

この受動や受容がもつ力をネガティブに受け入れるのではなく、それがもつポジティブな力を人間がもつ本質的な力だと定義する。そこに「聴く」が存在する。”じぶん”というものを中心に置かない思考。

さらに思考は「ホスピタリティ」へとしなやかにのびていく。

そこでもう一度「ホスピタリティ」の概念である。「歓待の本質は、客をもてなす主の側には求められない。歓待の本質はあくまでも、やってくる客をめぐって規定される」。シェレールによれば、ホスピタリティとは、<客>を迎え入れる者をその同一性から逸脱させるものであった。同 P.236

見落としてはいけないこと、それは、<客>ではなく<客>を迎え入れる者という点。<客>をおのれに同化させるのではない。その反対、おのれ自身を何かの帰属へのこだわりから解き放ち、異他化させることにある。”われわれ”の掟よりも<客>の存在のほうが優位をしめる絆。

ホスピタリティーは、世界をじぶんのほうから視る、じぶんのほうへ集極させる、そういう感受性への抵抗としてあることになる。わたしは自己のうちに閉じこもることができない。名をもった「だれか」として呼びかけられることで、わたしは<わたし>になる。 同P.237

わたしが誰かを迎え入れるとき、ややもすれば、「迎え入れる」という響きのなかに何か特別な地位についた自分を錯覚する。それについて私は間違いとは言い切れない。そこまで私の思考は到達していない。しかし、その錯覚から己を解放させる受難を引き受けたとき、ある事実に気づいた。その気づきをもってして我が変容したと他者から映るようになった。

私が体験した事実が本書に記されている。

ホスピタリティこそが、個の存在のかけがえのなさ、つまりは特異性(=根源的な単数性 singularity) を支えるということになる。そしてこの迎え入れられた個のかけがえのなさが、迎える個のかけがえのなさを支えるということになる。同P.239

迎える側から迎え入れる側を見る。異他化していないと、すべて「同じ」に映る。自分は一生懸命他者に接していたつもりであっても、他者からすれば「one of them」にしか自分は映らなかった。そんな経験はないだろうか?

迎え入れられた者が承認されたと喜んだ姿にふれたとき、迎える側は安堵する。ところが迎える側は己の「個のかけがえなさ」を支える「何か」に気づいていない。皮肉なことに、迎える側と迎え入れられた側の構造の逆転が、じつは、迎える側の<わたし>を存在させてくれている。

ホスピタリティの語源はラテン語のhospes。そのhospesが「迎えられる者」と「迎える者」、「客」と「主」の両方を意味する。むかしからひとは「それ」に気づいていた。