見えちゃっている

前回レビューした想像のレッスンに、「見えちゃっている」へ苦言を呈する一節がある。

「見えちゃっている」というあの言葉には、<わたし>の生を編む偶然の出逢いとそれに由来する存在の特異性への予量が欠けている。ひとの生は、まっすぐな一本線でではなく、異なる出逢いの断続というかたちでしかイメージできないはずのものである。

〈想像〉のレッスン NTT出版ライブラリーレゾナント015 P.159

「見えちゃっている」という一言で「定型化」された未来を語る。「定型にそって一生を紡ぐ」ことを不遜だと言うのではない。「見えちゃっている」という言葉には、決定的に欠けているものがある 。”それ”を不遜だと抵抗する。欠けているもの、それは「”偶然”をすべて欠落させて人生を語る」行為。

私は愚考する。ビジネスの現場にも「見えちゃっている」が瀰漫していないかと。

「コミュニケーション」という単語が跋扈し、コミュニケーションを「スキル」とみなして、あたかも磨けるような錯覚に陥る。陥穽。やがて「十分に身につけた」と感じるや、「わかる」を前提に「見えている」かのようにいつのまにか振る舞う。そのときの主語が <私>である。

「私に興味があるのは、ひとがどう動くかではなく、何がひとを動かすのかということ」

「見えちゃっている」には「何が」が欠けている。<私>を主語として振る舞うかぎり、「コントロールできない」ものを想定せず、「コントロールできる」ものにだけ「できるか/できないか」によって判断する。

ウェブサイトの制作に携わるようになって納得できた事実がひとつある。それは、

「人は何をするかまったくわからない」

ということ。何に反応するのか、何をクリックするのか、何に心動かされるのか…..まったくわからない。その事実は、会計事務所から転職した私に天動説から地動説への転換をもたらした。

「他者はどこまでいってもわからない」

それが私の口癖。馬鹿の一つ覚えのように唱える。愚考をめぐらせる愚生にはちょうどいい。「わからない」と錯覚したら「わかった」ことがある。「わからない」から放棄せずに「見よう」とする。皮肉。

見ようとすれば、見えなくなり、偶然を迎え入れる。「何が人を動かすのか」の「何が」を想像する。わからない。

だから、「見る、聴く、伝える」に己をそそぐ。<私>がなくなり、<他者>が表出し、やがて<他者の他者>に出会う。それが「自分」なのかもしれないと愚考する。

「見えちゃっている」—–この一言を放り投げて仕事をはじめてみないか。