[Review]: コトの本質

コトの本質

考えるということと、「わかる」、あるいは「理解する」ということは、まったく違うことです。「考える」というのは、 外界からの情報が入ってきたとき、脳の中の神経細胞が発生して、どうつながるか、その具体的なつながり方に関わることです。脳の中のプロセスそのものです。自然科学者が「わかる」というのは、二元論と要素還元主義に基づいて外界が脳の中に投影され、関連するあらゆることがらがきちっと整理された状態の内部モデルできることです。それが”わかる”ということ。ですから、考えるということとわかるということは、全然違います。「納得する」はこのような意味での「わかる」とは、またまったく違うことです。読者の方が普通にわかった思い込んでいるすべての「わかる」が「納得する」に相当すると思えばいいでしょう。

『コトの本質』 P.181

では二元論と要素還元主義とは何か?

  • 二元論—–考えようとする自分と考える対象とを峻別する。
  • 要素還元主義—–考える対象を細分化し領域を狭める。

何かを考えるときに、「それを考えている自分って何だろう」と考えはじめると、「考えるプロセス」が堂々巡りしはじめる。17世紀の哲学者は、「何かについて考える私について問う< 私>をとりあえず棚上げしよう」と提唱した。それが二元論である。

考える自分を捨象し、考える対象を明確にしたとき、当然「考える対象」がある。しかし、その対象を「大きく」してしまえば、実際は考えようがない。考えようにも考えられない。「生命とは何か?」を考えているのは、考えているようで考えていない。もし、ほんとうに「生命」を考えたいのであれば、まずはその対象をどんどん狭めていき、対象を細かく絞り込む。

たとえば、生命から細胞へ絞る。細胞と一口にいっても多細胞の生物から単細胞まである。なのでさらに単細胞にしてみるとか、といった具合に狭める。

二元論と要素還元主義というふたつのルールに従って考察すると、このルールに従っている範囲内の人は共通の結果を持つ。つまり、私が考えても外国人AやBが考えても同じになる。言語・文化・歴史といった「共同幻想」に依存しない。

「二元論と要素還元主義」の意味を「納得」したとき、「どこから考えていいのわからない」というのは、実は「考える仕方」を知らないと私は「理解」した。つまり、「問題を設定できる力」を身につけていない。「どういう問題を解けばよいのか」を明確にしなければいつまでたっても考えられない。

地球をシステムと捉え「人間圏」を語る筆者の視点は、人間圏に棲み共同幻想を抱いている私を「コトの本質」の迷宮へといざなう。私が「人間圏」と「共同幻想」を突き抜けて外側から「コトを見る」ことはこの先もないだろう。それでも本書によって、「考える」と「わかる」を自分にずっと問いかけていきたいと再確認できた。なぜなら、人間圏の「コミュニケーション」の根っこに「考える」と「わかる」があると愚考しているから。